Monday 20 May 2019

脳死に関する懸念

脳死を宣告されたけれど、奇跡的に生き返った(実は死んでいなかった)という話が、いくらかあるようだ。
以前も書いたけれど、「通夜」に死人が生き返ったという話も、世界中にある。

人間の体というのはかなり複雑で、解明できている点というのは、全体の1千万分の1にも満たないのではないだろうか。事実というのは、説明できるかどうかで決まるものではない。説明困難でも、嘘は嘘、真実は真実、ただし、ここの情報を信じるかどうかは、個人個人の論理性と、情報の裏付けが求められる。情報には経験も含まれる。経験で引き出された結論が説明できないこともたくさんある。

通夜という習慣は、死んだと見なされた人々に、本当に死んだのかどうか確認する機会を与えてくれる。人の命は尊いのだ。

脳死した人からの臓器のおかげで命拾いする人もいるだろうけれど、やはり、いくらか可能性があるならば、臓器の元々も持ち主の命を尊重すべきだろうと思う。

実際、人口血液は作ることができる。生理的食塩水でも代用できる。手術後の結果も良く、合併症や、感染などの危険性もない。さらに、体そのものが、血液を作り出す機能を持っている。事故などで大量の血液を失った場合、必要なのは血液ではなく、体内に酸素を運搬するための液体だ。実際、体に入れた血液の殆どは、働かずに体外に排出されてしまうということだ。こうした情報がなかなか広まらないのはなぜか。

こういうことを書くと、世の中を、斜に見ていると言われそうだけれど、臓器というのは、高額なものだ。血液もそうだけれど、ドナーから「もらった」場合でも、どこからか買ってきたものでも、臓器や血液を、高い値段で患者に売ることになる。

医者は、製薬会社からいろいろな恩恵を受けている。そして製薬会社で提供される情報が、しっかりと彼らの頭の中に入っている。彼らが自分たちの信じている情報の根拠を再吟味しない限り、彼らは、製薬会社に利益をもたらすようなことを信じ、実践している。そして、どんな世界、年齢層、血液型、性別、家族背景、居住エリア、役職、文系理系の人間でも、既に信じていることや、周囲で当たり前になっていることを再吟味する人間は、ほんのわずかだと思う。

私は、せめて、自分の家族だけは、脳死後の臓器提供は行わせないようにしようと思っている。本人が望めば仕方がないけれど。




忘れていた

 最近、音楽を聴こうという気分になった。それで、何を聞こうと探していたのだけれど、聞きたいものが特にない。それでも何か聞きたいので、まず マックス・リヒターが、アレンジしているビバルディの春は、気持ちがよかった。 その後、 ブラームス、それで何か、もっと新しくて、感動できるものと...