Saturday 28 April 2018

La Sabina


La Matanza と、La Victoriaの間の、高速と並行する細い道沿いにある、レストランですが、外から見ると、あまりぱっとしません。開いているのかいないのかもわかりません。
でも敷地に中に入ると、とても心地の良い、小さなパラダイスのようなところでした。

上の写真のお皿に乗っているのは、ツナのフライと、バナナ。バナナは皮ごと、食べました。皮は、しゃきっとしていて、癖がなく、野菜を食べているようでした。

今日は、息子を家においてきて、夫と二人でした。夫も、普段、 あまり外に出られません。だから今日は特別です。

Saturday 21 April 2018

子供が暗い絵を描く




自宅で子供に絵を教えていたころがある。定期的に作品展を開いていたのだけれど、「絵が暗い」という感想を受け取った。

当時、某県の公立小学校では、ステレオタイプな絵を子供に描かせていた。ドイツから帰国して、この状況を知った時は本当に驚嘆してしまった。年に一度、大きな絵画のコンクールがあり、このコンクールで入選させることに力を入れた授業だった。入賞者は、学校名と共に、地元の新聞で発表される。その作品を見ていると、同じ子供が書いたもののように、見事なステレオタイプなのだ。こんなことが、先進国の一つの県で行われていていいのだろうか。「子供の絵とはこういうものだ、これが健康な、明るい、のびのびした子供の絵なのだ。」押しつけがましいにもほどがある。日本の画壇そのものに、嫌悪感を抱いている私は、さらにこの県の美術教育に、嫌悪感を感じた。この県で一番大きな作品展も、審査員は、自分のクローンのような作品を入選させているようだ。

私は暗い絵がいいと言っているのではなく、絵は、子供たちの心を、素直に反映するものであってほしいと考えている。

親の死や、いじめなど、子供が問題に直面していて、心が痛むとき、それが絵に現れる。その時に、「そんな暗い絵を描くのではありません。子供らしい明るい絵を描きなさい。」などということを要求するのは、残酷ともいえる。子供は、自分がどんなにつらいか訴えているのかもしれない。「よくかけているね。きれいだね。」と受け入れてあげたい。

世の中には、表面だけを見て、表面だけをなおしたがる人が多くて困る。表面に現れてきているのは、内面にあるものの結果なので、時間がかかっても、常に内面を理解するよう努め、できることならば、助けになりたいと思う。

しかし、人が人にしてあげられることは、本当に限界がある。やはり、苦しみを抱える人に代わって、耐えてあげることができない。せめて、苦しいのだということを、理解してあげるしかないのかもしれない。そのための「言葉」が暗い絵なのかもしれない。

Wednesday 18 April 2018

ネイティブが「間違えではない」という時ー何をネイティブに求めるか

ここでは英語を母国語とする人々を、ネイティブと呼ぶことにします。Native English speakersということだけど、これを、英語を母国語とする人々と書くと、面倒なので、ここでは、ネイティブと省略します。

「私の母の家の窓のガラスのタイプは、防弾ガラスです。」

上の文章の意味は解るでしょう。もし、日本語を知らない人が、上の文章が正しいかどうか聞いてきたらなんて答えるでしょうか。
間違っているとは言わないでしょう。でも、助詞の「の」を3回以上繰り返して使うのは、いい文章ではありませんし、不自然です。

基本的には、何度連続して「の」を使ってもいいのです。しかし実際に使うと、おかしいのです。

英語でも同じです。ネイティブが「間違えではない」といったとしても、不自然な文章にならないという保証はありません。

 「全然大丈夫ですよ。」

全然の後に肯定文が続くのを時々聞きます。これは、文法的には間違いでしょうか。これについて、Wikipediaの説明は、興味深いです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E7%84%B6

ここの、「正しいとされるよう法」では、
「(打消しの言葉や否定的な表現を用いて)まったく。まるで。少しも。まるっきり。
「全然~ない」の形で全否定を表す。」

とあります。
一方同サイトでは、
「主に明治時代の文学作品など明治時代から戦前までの近代語に見られ、否定表現を伴わず「すっかり、ことごとく、完全に、全面的に」。 日本に入ってきた当初の用法はこちらであり、字義的にもこちらが正しい。 国語辞典によってはこの用法を記載しなかったり、記載した上でかつて使われた用法とするものもある。」
ともあります。
面白いと思ったのは、以下の辞書の引用です。
「小学館現代国語例解辞典 (第4版)ぜんぜん【全然】(副)
全く。まるで。「全然知らない」
▽あとに打消や否定表現を伴って用いる語だが、俗に、「非常に」「とても」の意で用いられることがある。」
この説明を読んで、私は、辞書というのは、実際にその言葉がどのように使用されているかということを述べるべきなのだと、改めて思ったわけです。

さらにこういう説明が続きます。

「明治時代には夏目漱石も「全然」を「全面的に」「完全に」の意味で否定を伴わず使っていた[1]。 夏目漱石のほかに石川啄木[2]森鴎外[3]芥川龍之介[4]らも「全然」を否定を伴わず使っている。」


あの、日本の代表的な文学作家たちも、全然に肯定文を繋げているのです。

文法が間違えているかどうか、白黒つけられないような場合があります。 そうなってくると、それが「自然かどうか」ということが問題になってくるでしょう。

 ここから私の考えを述べます。

数人のネイティブに間違えか間違えじゃないかを尋ねるよりも、その文章が、自然かどうかを尋ねることのほうに、意味があるのではないかと思うのです。間違えとか、間違えではないかを判断したいのなら、文法を知っている人に尋ね、さらに彼らの判断に依存せず、適切な資料を教えてもらうことにとどめるべきです。その後、自分で疑問点を信頼できる文献から調べるべきでしょう。ネイティブたちは、辞書や文法書ではありません。むしろ、文法は、ノンネイティブのほうが知っているでしょう。


結論として、文法に関しては、ネイティブも含めた他の人の言っていることをうのみにしてはいけません。人に文法を尋ねた後は、それらの人が提供してくれた情報の出どころを教えてもらい、信頼できる文献で、確認をするべきでしょう。
ネイティブには、文章が自然かどうかを見てもらいましょう。

Tuesday 17 April 2018

空気を読むマイノリティかな





 Coastal de El Sauzal
Photo by Felicia Jarvis

私は子供の時に、自分は少数派として生きていこうと決心した。人のゆかないところに行き、人のやらないことをやろうと。それで初めて、自分の存在意義が感じられる。
だから、いつも人とは反対の方法を見ようとしていた。

しかし、人がどちらを、どういう理由で見ているかがわからなければそれができない。

私の観察は、いつも、手の足りないところに、自分の手を差し伸べるものだった。

社会性とは、そういうものではないのだろうか。

ステレオタイプではなくなること、人とは違うことをする人間を、空気が読めないというのではない。不必要に、人手の足りているところへ盲目的に訪れ、いらぬ仕事をする人間のことを、本当は空気が読めない人間とすべきだ。

とりあえず、人に褒めてもらうことはあきらめよう。

それでもいいではないか。

Saturday 14 April 2018

自分の考えが重要な時とそうでない時

自分の考えが、重要な時とそうでない時を見極めるのは、とても重要なことだと思う。

自己主張が大切なのはわかる。自分自身の意見を持つことが重要なこともわかる。しかし、自分の意見が重要でない時も、たくさんある。

例えば、他の人が何をどう考えているかについて正確に把握しようとする場合、自分の意見は、関係がなくなる。

英語の正しい文法について調べる時に、自分が正しいと思うことや、自分がこうあってほしいということは、ちょっとどこかに置いておいて、まずは、資料からの情報を正確に把握するべきだと思う。

例えば、自分が知っていると考える英単語の意味を再確認する場合、もし、Oxford Dictionaryが自分の考えとは違う情報を載せていたら、Oxfordを間違えと思うだろうか。それとも、Cambridge Dictionaryも見てみるだろうか。 CambridgeがOxfordと同じだったら、両方間違えだと結論付けるだろうか、それとも、自分の考えを調整するだろうか。

いつでもどこでも、自分の考えが重要であるということはあり得ない。独創的なのは良いが、それは適切な場所にとどめるべきだろうと思う。つまらないほど、当たり前のことに聞こえるけれど、「適切な場所」がどこかということに関しては、実際の社会よりももっと幅があってよいと思う。


ところが、日本人のコミュニティーでいつも感じるのは、自分の考えが普通で、正しくて、それ以外にないと考える人が、必ずといっていいほどグループ内に存在するということだ。そういう人は、数が少ないが、自己を声高々に主張する。お山の大将という存在だ。そして、大多数は、傍観者。また数が少ない、反対者がいる。傍観者は、たまに陰で批判する。

日本社会は、個性のほしいところで個性がない。芸術面で、伝統文化以外の評価を得られないのもしょうがないかなというところ。日本人はすごいといったようなニュース記事の大方は、誇大広告のようなもので、信ぴょう性がないけれど、みんなこういうのを読みたがる。パッとしない自分の人生を、日本国民ということでなんとか自分を慰めたいのだろうと思う。何しろ、自分が何の努力もせずに、日本国民ということで褒めてもらったり、気分が良くなったりしたら、棚から牡丹餅ですからね。





Friday 13 April 2018

希望の裏側

Romans 12:12 (KJV)  Rejoicing in hope; patient in tribulation; continuing instant in prayer;

この短い言葉の中に何を読み取るか。

希望という言葉の響きは、明るく、健康的だ。 
しかし、なぜ希望によって喜ぶのだろうか。

1世紀のクリスチャンは、ひどい迫害を受けていた。当時、クリスチャンの会衆が設立されたころ、ユダヤ教の小さな宗派もたくさん現れ、クリスチャンは、そうした小さなユダヤ教の宗派の一つとみられていた。
クリスチャンになるということは、社会的地位を捨てることでもあっただろう。

サウロ時代の栄光をかなぐり捨てて、パウロはクリスチャンになったが、これは、実はすごいことだった。当時一般には、無学な人間が、クリスチャンになると言われていた。漁師や、嫌われ者の税金取り、農民や、女性、また子供たちなど、社会的にあまり尊敬されていない人々から、イエスは愛されていた。パウロはエリートだった。しかし、無学な普通の人々の信じる、小さな「カルト」と思われていたグループに属し、命を懸けて、キリストの教えを広めた。

時には希望以外の喜びが、見つからないこともあり得る。

クリスチャンになると、人格が良くなって、家庭が平和になり、人間関係もうまくゆき、神様が助けてくれるので、生活に困らなくなると思いきや、イエスは、クリスチャンになることは、むしろ、現在の生活に苦しみが生じることを示唆していた。

確かに、正直な人、純真な人は愛される場合もある。しかし、実は、そうではない。本当に正直で純真な人間は、自分のことを宣伝しない。人に良く見せようとはしない。正直な故に、嫌われることのほうが多いのではないだろうか。さらに、本当の愛は、他の人の長期的益を求める。しかし、そういう益は、即効性がなく、むしろ、 人を辛い状態に置くことがある。人をほめて、いい気分にさせ、そこから自分が何か得をしようとすることのほうが、実は多いのかもしれない。下心のある、見返りを期待した親切が、ずいぶんとはびこっていて、人々はもう、何も考えなくても、そういう行動をとるようになってしまっているように感じることがある。
それは、ひねくれた考え方だろうか?そうかもしれない。でも、違うと言い切れるかな。

希望によって喜びなさいという、表面的には、単純で、ただ明るいように響く言葉には、現在の苦しみを耐えるようにという意味合いが含まれている。







Thursday 12 April 2018

Poetry Course

You sing like waves with a voice as an old violin
You dance like a poppet with wires from the heavens
You kiss me like a cat poking me with her pow
You hug me like spring wind gently blows me
You are crying like a person who lost hope
I will cry like a baby if you say goodbye

上の詩は、 Allpoetryの中の、Poetry Courseで作った。
無料で、講師が、18回にわたり、詩の書き方を教えてくれる。

詩関連のコースだけでも、いくつもある。
https://allpoetry.com/group/courses

講師が、丁寧に添削してくれる。

お金がない、時間がない、いろいろな状況が、学習を阻むというかもしれないけれど、本気になれば、いくらでも学ぶ材料には事欠かない。

現代社会で唯一、いいと思うのは、こういうことだ。情報化社会の問題点も多いけれど、自分の探している情報にアクセスできるというのは、本当に幸せなことだと思う。



Wednesday 11 April 2018

Q&A形式のサイトからの情報の信ぴょう性 Q&Aの使い方

自分の勉強のために、英語サイトのQ&Aで回答をしていたのですが、果たして質問者は、回答者の言うことを信頼して、納得してしまってよいものかと、つくづく心配になる。
回答者の中には、Q&Aで答えることは、自分の力試しだと勘違いして、自分の回答の根拠を提示するのを間違っていると感じている、とんでもない人もいる。そういう人に限って、回答の70%が間違えているのだ。それも自信をもって、間違ったことを言う。訂正すると、逆恨みする。質問者のためだなんて、全く思っていないようだ。
それから、Q&Aを、恨みを晴らす場所だと勘違いしている人間もいる。これも、質問者のことなど、そっちのけだ。
こういう自分勝手な状態を、 英語ネイティブたちのQ&Aではあまり見たことがない。
日本の某英語サイトは、Q&Aで、本当に変な回答が出回っている。自己主張の強い、動機がゆがんだ人間が、競争心むき出して回答しているのを、大多数の人々がただ傍観しているのだ。

さて、いくつかの英語サイトのQ&Aでも、類似した状況がないとは言えない。私はほかの日本語の英語サイトは知らないのだけれど。

英語ネイティブのQ&Aに関しては、そういう醜い争いはあまり見かけないものの、やはりそのまま信じてはまずいと思う。特定の問題に対する答えの参考として、考えておくのが良いと思う。
日本人が、正しい日本語を話しても(そういう人は少なくなった)日本語の文法について、正確に答えられるかというと、そうではない。それを考えると、どれだけの英語ネイティブが、英文法を知っているだろうかと考える。文法を知っているのは、大卒も含め少数の人間に限られるはずだ。特に、日本に来て、まあ、英語ネイティブといえば、英語を話すので、知識がなくても英語の先生になっちゃったりしているのもいる。そういう人に、英文法の話をしても、いい加減なことしか言わないかもしれない。そういうネイティブのほうが、多いと思っていたほうがいいだろう。

しかし、英語ネイティブの関わるQ&Aは、特定の問題に対する、非常に参考となる情報を提供してくれる。数人の人の話を聞いてから、もう一度、信頼できる辞書や文法書で確認することで、作業が効率的になる。

Q&Aの話は、よっぽど根拠が示されない限り、半分ぐらい疑ってかかってほしい。また、根拠にしても、根拠だと言いながら、根拠になっていない根拠がたくさんある。まるで早口言葉だけど。
ネイティブに聞いた。ではなく、どこそこのネイティブ、何人と、このように質問して、このような答えが返ってきたという言い方をしていないといけないが、聞いたネイティブがみな間違えていることもある。
また、ネイティブのQ&Aでの答えも、根拠が示されているかどうかを確認する。全く信用してしまってはいけない。
日本人には小難しい文法用語を使ってごまかそうとするのもいるから、これも気を付けてほしい。騙されないように。
そう考えると、信頼できる辞書や、文法書、また、頻度に関しては、コーパスが根拠として使用できるはずだ。

しかし、一番気を付けないといけないのは、自分の立てたQ&Aの質問が、プライドの高い知ったかぶりの英語学習者の、血で血を洗うバトルの場所と化さないようにすることだ。質問者は、回答者の野望を遂げるための、餌にされる。

相手を傷付けようとする態度は、学習という崇高な行動とは全く逆の、人間の下等な行動ですね。


人の弱さは表面上の強さに現れる

人の弱さというのは、表に出てくる強さの中に現れてくることが多いような気がする。人を攻撃する時に、人の弱さは現れる。
臆病な犬がしっぽを後ろ足の間に隠すようにしながら、顔だけは勇ましく、牙をむき吠えまくる。
そういうものを思い出させるのは、口頭による喧嘩ばかりではない。
オンライン上でも、そうした状態を感じることがある。

人間のプライドの高さは、本当に醜い仕方で現れることがある。
とにかく、攻撃という一つの目的に徹した人間は、どんな手を使ってもその目的を果たそうとする。そこに、何かを学ぶなどの、崇高な目的はない。

能力が自分にはあると思っている人間は、確かにある程度の能力を持っているに違いない。しかし、プライドは、能力のある人々を、精神的廃人のようにしてしまう。やがて、能無しになる。成長が止まるのだ。

そういう人間の中にあって、自分が精神的な廃人にならないようにするのは、かなり難しい。論争相手が自分の言ったことを一切理解しないと判断すれば、負けるが勝ちで、逃げ出すのに限る。理解したくない人間は、理解ができないのだ。

その負けるが勝ちがまた難しいのだ。これもプライドが高いとなかなかできない。

しかし、残念だ。人間は、自己を高めようと学ぶが、知識は人を誇り高くすることのほうが多い。知識だけではない、学力、権力、能力、財力と力の付くものすべては、人を腐敗させる。ついてに言えば、外見の良さもそのうちに入る。

そういう力を持つ者は、弱くなり、醜くなってゆく。でももし、本当に、真実を愛する人がいればそういう傾向から守られると思う。

残念なことに、多くの人は真実を求めてはいない。 それはお金を運んできてくれるわけでもないし、人に尊敬されるわけでもない。むしろ、その逆が多いだろう。

人の弱さは、表面上強さとなって現れ、人の強さは、表面上弱さとなって現れる。

なぜこんな仕組みを、神は創造したのだろうか。人間は、やはり物事を考えないといけないようにできている。

本当の学問は、今の社会では、進展しない。 先端の科学を誇りに感じるかもしれないけれど、人間性の貧弱さが土台となっているので、それは人間の幸福に寄与しない。





Monday 2 April 2018

霧の森の中を歩いた

Photo by Felicia Jarvis

森を3時間ほど歩いた。森の中を歩いていると、楽しくて、何時間でも歩けそうな気持になる。この日は霧がかかっていた。そのおかげで、森の木々の写真を撮ると、奥のほうの木々は霧にぼかされて、奥行きが出る。
家を建てるんだったら、深い森の中に建てたい。

Photo by Felicia Jarvis


Photo by Felicia Jarvis

 Photo by Felicia Jarvis



忘れていた

 最近、音楽を聴こうという気分になった。それで、何を聞こうと探していたのだけれど、聞きたいものが特にない。それでも何か聞きたいので、まず マックス・リヒターが、アレンジしているビバルディの春は、気持ちがよかった。 その後、 ブラームス、それで何か、もっと新しくて、感動できるものと...