Monday 25 November 2019

勝手に思い込んで突き進む人々

人生経験が多いといっても、人ひとりが経験できることなど、たかが知れている。
様々な環境といっても、70,80年の人生で、どの程度の経験ができるだろうか。
世界は広い。人間の歴史の何千分の一を経験したからと言って、何がわかるだろうか。

人の話を半分だけ聞いて、すぐに何かを判断する人間の多いこと。

車を売りに出した。ミニクーパー、右ハンドル、スタートしない、部品取り用、2500ユーロ。

たくさん問い合わせがくる。それで、右ハンドルで動かないというと、すぐに、あきらめる。書いておいたのに、半分しか読んでいない。時間の無駄だ。

人の話をきちんと聞いてほしいものだ。

ミニクーパーと、2500ユーロが、トリガーとなって、衝動的に行動する。

それと同様、人の行動を促すキーワードがある。そのキーワードは、文章から独立し、人の行動のトリガーとなる。

時にマスコミは、それを悪用する。

発言全体を紹介せず、都合の良い部分だけ切り取って、報道する。

どこかの会社が、変なメールを送ってきた。
中古車販売の会社なら、その証拠を出せとか、 ここで車は売れるけど、買うことはできないと。人のことを知らず、勝手に、スペインの居住者資格がないと思い込んでいる。それでこういう変なメールを送ってくる。

世の中、思い込まない人のほうが少ないのかもしれないと感じる。

世界は人々の勝手な幻想に支配されているのだ。空恐ろしい。

ご近所さん - 多国籍コミュニティ

私のご近所さんや、時々顔を合わす友人たちの話。

私の隣の部屋のおばさん。彼女は、何人なのか忘れたけれど、スカンジナビアの国の一つ。しょっちゅうバルコニーからうちの窓をたたいて、色々話しかけてくる。

同じ階に何人かドイツ人がいる。以前同じ階に、イタリア人の女性が住んでいたが、彼女はイタリアに引き上げた。その時に、壺やお皿をもらった。

2人の韓国人がいる。一人はすごくおとなしい。もう一人は、しょっちゅう犬と外を散歩していて、良く話しかけてくる。彼女と話すときは、英語とスペイン語とドイツ語をまぜこぜにして話す。

一番上の階には、スロバキア人と、ポーランド人の夫婦とその子供たちが住んでいる。スロバキア人の旦那さんは、自動車修理工で、彼と話すときも、英語とスペイン語とドイツ語をまぜこぜにして話す。奥さんは英語が流ちょうに話せるので、英語で話す。

私の住む階の下に、イギリス人の中年女性がいる。顔を合わせると挨拶する程度。

時々、ドイツ人の年寄夫婦に合う。奥さんと、エレベーターで出会ったときドイツ語で、話をした。話をしたといっても、私は、特にドイツ語を学習したわけではない。でも、ドイツのは5年ほど住んでいいた。なぜかわからないが、一応何となく会話ができている。不思議だ。

イギリス人は、夏場になると、現れる。家からあまり外に出ないので、あまり交流はなく、たまに顔を合わせると、立ち話を2,3分するだけだ。


私の友人だけれど、まず、年寄りのイギリス人。よく気を使ってくれる。でも、スペイン人の友人たちからすると、イギリス人は愛情の表現がうまくないという。日本で育った私は、そんなことはないと感じる。
ドイツ人の友人はイギリス人よりも、人間関係に深く入り込んでくる。冷静で、知性的だが、哲学的でもある。その部分で、深い人間関係を求めるのかもしれない。しかし、我が道をしっかり歩いている。その点イギリス人は、ドイツ人より人の顔色を見る傾向を感じる。イギリス人は親切だけれど、「私は親切なのよ」といった表情は出さない。優しさや愛情は、実際的、効果的な行動で示してくれる。ドイツ人もそういうところがあるかもしれない。
良くドイツ人は日本人と似ていると、日本人の口からきくが、私はそう思わない。
ドイツ人は、日本人と全く逆といっていいほど独立心に富んでいる。そして、論理性を優先する。付き合っていて非常に楽だ。論理が正しい正しくないかに関わりなく、空気をほとんど読まず、単刀直入にものを言ってくれるのは、私にとってとてもありがたい。その点、イギリス人はもう少し「配慮」するので、やや面倒くさい時もある。そういう意味では、イギリス人は日本人と似ている。しかし、日本人よりも、論理性と個人が優先される。
イギリス人、ドイツ人両者は、論議をする。そしてそのことを負担に感じない。これは本当に助かる。

アジア人の友人たちもいる。彼らは実利的だ。しかし、ヨーロッパ生まれのアジア人は欧米化している。ヨーロッパ生まれのインド人の多くは、非常に理知的で、繊細で、アジア人のいいところと、ヨーロッパ人のいいところがうまい具合にミックスされている。イギリスで、多くのインド人が知的職業についているという印象がある。

中国人も多い。友人にはあまりいないが、行きつけのチャイニーズショップの女性は、実利的に賢そうだ。

フィリピーナは、たくましいという印象がある。彼女たちは弱みを見せない。フィリピンに住むインド人の友人が、「フィリピーナは弱音を吐かないので、インド人はその点、きつく感じる」と言っていた。

アフリカ人は、一般的に愛情の表現に富んでいる。時々、非常に個性的な人がいる。

スペイン人は、ストレートな人々だ。声もでかいけれど、頭に浮かんだことがそのまますぐ言葉になるような感じもする。でも、ベネズエラ人は、もう少しおとなしくて、繊細な人が多い。親切で、器用な印象もある。

スペイン人といっても、私の知っているのは、テネリフェのスペイン人で、どうやら本土スペインとは、異なるようだ。


Friday 22 November 2019

和英辞典、英和辞典に頼ってはいけない

言葉は、人々の生活とともに変化する。新しい言葉が生まれたり、言葉が消え去ったり、意味が変わったり、変化したりする。

英和辞典を引くと、一つの言葉にたくさん意味が載っているけれど、それを読んでも、その言葉の使い方が完璧にわかるようになるわけではない。

だから、英和辞典を丸暗記して安心していてはいけない。

まず英和辞典の情報を、疑ってみよう。 そこにある事例を検索し、実際人々がそういう言葉を使用しているのかを見る。英語のサイトだからといって安心してはいけない。そのサイトの文章を書いたのはどういう人かを見よう。英語圏の人によって書かれたものであれば、ある程度は安心だけれど、できたら複数見て比べてみよう。
 
英語圏のサイトなら何でもいいというわけにはいかない。信頼できるサイトを選ぼう。
良く知られている、ニュースサイトでも、間違えはある。だから、複数見比べないといけない。


Monday 11 November 2019

人の上に立ってはいけない!

学習塾の宣伝のチラシに、
「人の上に立つ人材を育てる」というのがあった。
リーダーになりたいと、多くの人が考える。
高い地位と、人生の成功を関連付ける人々が大勢いる。愛する子供にも、高い地位について、幸せになってもらいたい。多くの親はそう考える。
でも、この考えは、不健康な社会を反映している。
 人と比較することによってのみ、人生の成功の度合いを計ることができない人は、常に、他人と自分を比較して生活することになる。つまり暗くて苦しい、孤独な人生を送るということだろうと思う。

すべての人がリーダーになることはできない。そして、上には必ず上がいる。これが現実だ。

「人の上に立つ人材を育てる」というのは子供を不幸にする特効薬のようなものだ。

幸福は、外側からの環境によって左右されるというよりも、自分の置かれた現状をどうとらえ、希望を失わずにいられるかにかかっている。親が教えなくてはいけないのは、そういうことだ。

Sunday 10 November 2019

Art and Craft (2014)から

https://www.imdb.com/title/tt3654964/

実にいいドキュメンタリーだった。

Mark A. Landis  

この人は、絵画の模写をしている。そして出来上がったものを、無料で寄贈している。
直接実物を見ていないが、その模写は、本物のような迫力があり、見る人に迫ってくる。実に見事な模写だ。
実際、原画のサインまで模写している。

多くの人は、これを犯罪と呼ぶかもしれない。しかし彼は、こうした行為から利益を受けていない。彼の動機はもっと深いところにある。イエスキリストが、宣教活動を彼の食物と呼んだように、彼にとって、こうした行為は「食物」のようなものだとドキュメンタリーから判断できる。

彼の模写のすばらしさに魅せられて、多くの人がサポートをしている。ついに彼の個展が実現した。見に来た人々は彼の模写に深い感銘を受けたが、多くの人は、「素晴らしい、でも、あなた自身の作品を見たい。ぜひ、あなたの作品を描いてほしい。」と言っていた。

私は彼らには同調できなかった。

音楽の世界では、演奏家が他の人の作った曲を演奏する。
どうして、絵画の世界では、他の人の描いた絵画を模写できないのか。

演奏家は、模倣芸術家として位置づけられているのに、なぜ、絵画には模倣芸術家がいないのか。

演奏家は、楽譜を読み、曲を解釈し、演奏する。同じ楽譜を演奏しても、演奏家の解釈や力量で、出来上がる作品は異なる。なぜ、絵画の世界にはそれがないのだろうか。

今まで、こういう角度から物事を見たことがなかった。

ただ、最近周囲を見回して思うことだけれど、画家の技術のレベルが、古典画家のレベルとはかけ離れている。大学時代、基礎となるデッサンがまるでダメなのに、作品はそれなりに仕上げる学生が大勢いた。でも、そういう作品は、まるで表面的で、奥行きを感じないものがほとんどだった。まあ、短期間部屋に飾っておくにはいいかもしれない。

マーク・ランディスの技術は、古典的画家のレベルに達しているのだろうと思う。さらに、作品から滲み出している力を感じる。彼は、模写した作品に、自分のサインではなく、きちんと(?)原画の作者のサインをし、彼自身に栄誉を帰していない。

野心や、物欲によって汚されていない、有能な人物に出会うというのは、実に素晴らしいことだ。


Friday 8 November 2019

福祉政策は隠されている!

ドイツ、アイルランド、スペインに住んだことがある。
本当にどこに住んでも貧乏だった。いろいろな助けを探した。まず、その国の居住権を得るための情報を探すのが難しい。どこに行って、何をすればいいのかという手続きを見つけるのに、かなり苦労する。当局の人たちも知らない場合もある。

ドイツは、いいほうだったと思うけれど、福祉事務所の存在を知ったのは、友人からだった。そこに行って、すべてを説明すると、生活に必要なお金がもらえる。4年目にして初めて知った。

 アイルランドは、寒かったので、10か月ほどしてから逃げ出したが、ここは、登録するのに、警察と、事務局の意見が対立し困った。

スペインも、登録の情報を探すのにすごく苦労をする。
最近友人を通して、良い情報を知った。今まで、いろいろな人に聞いたが、だれも教えてくれなかった情報だ。これで少し、楽になるといいのだけれど。

夫は、線維筋痛症なので思うように働けない。今まで、日本でも、何の助けもなかった。冬になると3か月ほど寝込んだりしていたのに、全く、援助がないのだ。今は、痛みを我慢して、できることを何とかしているが、普通の仕事には就けない。

 それでも、私たちの外見は、健康でお金があるように見えるらしく、自分たちの状況を説明しない限り、だれも私たちのことはわからない。

イギリスでもそうだけれど、福祉政策は隠されている。あまり、それを使ってほしくないからだ。あまり、移民は欲しくないし、いろいろな情報が隠されている。イギリス大使館に尋ねたら、夫のために何もできることはないと言っていたが、それは嘘なのだ。もしくは、こういう人たちも知らないのだ。実は、申請すれば福祉の恩恵を受けることができると。それは、なるべく周囲に知られないようになっている。

Thursday 7 November 2019

自己防衛による自滅

最近は特に、人を信じるのが難しくなり、「匿名」を使う機会が多くなってきた。
「匿名」で、意見の交換だけではなく、仕事までできる。
変なことに、匿名を使い、オンライン上でコミュニティーに属し、有名になる人もいる。

人間関係に信頼性がなくなると、匿名も増える。
 自己表現にも制限をかけないといけない。

それが進んでゆくとどうなるか。

ひきこもり。

批判や中傷から身を守る。

自分を社会から抹消する。

存在の意味を失う。


不審な人物から離れているのは重要だけれど、情報を限定しすぎると、自己の存在の意味がなくなる。

知らないものはすべて疑ってかかるよう、日本では学校で小さいころから教えられる。

知らない人とは話をしない。

これは、世界的レベルから見ると、かなりの異常事態だと思う。

「立ち入り禁止」という標識が、足場の悪い観光地のスポットにみられるが、
イギリスでは、「ここから先は自己責任」という標識になっている。

つまり、日本では、疑わしいものは、すべて「禁止」にする。考えて判断する必要がない。 疑わしい見知らぬ人を助けることのリスクが強調される。人間関係が軽薄になっている状況からすると、ほとんどの人が「見知らぬ人」となり、人を思いやるという気持ちも消え、やがて社会は破滅する。

自己防衛の行き過ぎは、破滅につながると思う。

Wednesday 6 November 2019

食事ができるということ

先月、家賃と、政府が個人業者に強制している社会保険を払ったら、何もお金が無くなってしまった。さて、何を食べて生きてゆこうかと思った。

実は、私たちは、結構きれいなアパートに住み、ミニクーパーに乗り、良い洋服のもらい物が多く身なりもよいので(自分で言いますが)、とても貧乏には見えない。

しかしどれも、安くてすんでいる。本当に貧乏なのだ。以前から残っている食べ物を食い尽くし、50ユーロぐらい月の半ばに入ったら、別の支払いに飛んで行くけど、30ユーロぐらいで、1週間食べるために、すごい工夫をした。買うものは、玉子、小麦粉、ベーキングパウダー、牛乳、鶏肉、砂糖、玉ねぎ、にんじん、豆、一番安いビスケット、レモン、ガーリック、トマトソース、水などそんなものを買っておけば、何とか工夫が利く。加工食品はさける。
豆は、安いし、栄養価も高いので本当に重宝する。
手羽先を油で揚げるのだけれど、その前に、ゆでる。ゆでた煮汁は、瓶詰めにし、豆を煮る際に使う。豆を煮たら、これも瓶に詰める。 その一部を、トマトソースで味を付け、朝食の目玉焼きに乗せる。ベークドビーンズだ。熱いうちに瓶に詰めれば、冷えたときに蓋がへこむ。しばらく保存できる。ほかの煮豆からは、Hummsというものを作る。ガーリックとレモンで味付けをした豆のペーストで、ディップや、マヨネーズ代わりに使う。これもたくさん作って、一部を冷凍しておく。

結構おいしいものを食べたような気がする。さすがに月末、小麦粉と、豆しかなくなってしまって、小麦粉を水で溶いて、薄く焼いて、クレープ風にして食べた。成長期の息子のことを考えると、ちょっと切なくなった。

しかし、フィリピンには、この、小麦粉さえも手に入らない家庭がたくさんある。友人が、小さな紙に魚を書いて、ごはんに乗せて食べていたのを覚えている。半分ふざけてだけれど、実際に、ご飯しかなかったに違いない。

食べられることは、本当に感謝ものだ。

素直に書くということ

文章を書くのは苦手だ。日本語の文法とかの問題ではなく、たぶん、自分自身の持つ、他の人との共通点の少なさに問題があるのかもしれない。
どんなことに興味があるかということもあるけれど、物事に対する反応という点で、他の人と違うのかもしれない。読者の気持ちを考えて文章が書かれていると、読みやすいだけではなく、共感を与えることができる。私には、それが欠けているのかもしれない。

ちょっと自分でも驚いたのは、私は現在、英語で詩を書くのが楽しくて、ここの所立て続けに詩を投稿している。昨日、コンテストでGoldをいただいた。

https://allpoetry.com/contest/2736097-Create-a-minimalist-poem--11

日本語では詩がうまく書けないのだけれど、母国語でもない英語では、気兼ねなく、自由に書けるのは、どうしてだろう。

私は、依然、韻を踏んだ詩を、苦労して書いていたのだけれど、今は、英語の俳句を書いている。私の場合、字数は数えないし、季語も無理に入れない。自分で、haikish short poemと呼んでいる。感情を表す言葉を使わず、状況描写だけで、考えや感情を示唆するという、楽しい言葉遊びだ。
 ちなみに、11月5日に書いた俳句を一つ紹介しよう。

a sleeping kitten
hiding claws among soft paws
an innocent beast

特にひねりも技もないし、韻も踏んでいない。通常英語の俳句は大文字は使わないし、theという御堅い冠詞も使わない。さらりと書いて、読むほうが深読みをする。

私はこれが楽しくて仕方がない。



Monday 4 November 2019

海外の日本人社会

以前読んだ記事で、こういうのがあった。
タイだったと思うけれど、生活費が安いので、そこに引っ越した独身女性がいた。彼女は、美容師で、タイで十分豊かに暮らせるほどの収入があった。
しかし現実はとても苦しい生活をしていた。
たいていの国に、日本人コミュニティがある。交流が盛んで、よく飲み会などがある。彼女は、そういうことで、日本人同士の付き合いに参加していたらしい。
しかし、重なる外食や、ましては飲み会での費用は、彼女にとって大きなものとなり、生活が苦しくなった。それならそういう付き合いはやめればいいじゃないか、というわけにもいかないのだろう。オンラインでの世界もそうだけれど、日本人コミュニティと付き合うのは、ものすごく気力がいるし、飲みにでも行けば、お金がかかる。

私は、ほとんど外食しない。旅行にもゆかない。そういう余裕がない。テキストなどのやり取りでも、こまめに返事ができない。そういうことで、日本人のコミュニティに属するのは、初めから無理だ。

特にさみしいとも感じない。お金のかからない、気を使わなくていい友達もたくさんいるし。ホームシックにもならないし、食べ物にも不満はない。夫は優しいし。息子はいい子だし。

なんて恵まれているのだろう。欲を言えば、もうちょっと収入があるといいなあ。




Sunday 3 November 2019

訳ありの人々へ

最近は便利なことに、匿名でも、仕事を依頼したり請け負うことができるようになった。ネット環境下で、オンラインの会社が仲介することで比較的安心に仕事ができる。

過去に、誰かから追われている人々に出会ったことが何回かある。借金取りだったり、ヤクザだったり。
追われている人々は、悪い人々ではなく、むしろ、情に流されるタイプの、親切な人たちだった。

ネット難民という人々も、仕事をすることができる。

訳ありの人々も一生懸命働いて、世の中の役に立っている。安いお金で使われて、きついだろうけれど、頑張っておくれ。



Saturday 2 November 2019

批判の目的

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191102-00205425-hbolz-soci

ある宗教団体との関係を持つ政治家云々の話が出た。
そもそも、宗教の自由は、保証されなければならない。「小さな宗教団体=洗脳=悪い」の方程式は、日本の民衆にしっかり根付いている。これは、人種差別と同格のように感じる。

小さなといっても、それは、神道、カトリック、プロテスタント、イスラム、ヒンドゥー教の有力な団体と比べて小さいということで、本当に小さいわけではない。

私は、宗教が政治に与える影響を、あまり好ましいとは思っていないが、基本的に、それは避けられないものだとも思っている。今の政治体制は、土台からおかしいのだ。

日本人の生活は、神道の教えに深く根ざしたものではあるが、問題は、実質的な神道信者には、信者である自覚がないことだ。要は、盲目的なのである。こんな恐ろしいことはない。この盲目性が、日本の社会の精神的な国際化を阻んでいるのだと私は思う。
さらに、神道の教えは、コメの生産性を目的に形成されている。精神性は、コメの出来高で、その価値が判断される。この点、キリスト教の精神とは全く違う。悪いことに、コメがとれれば、他の宗教の教えや行事も取り入れる。
良く周囲を見渡してほしい。クリスチャンでもないのに、クリスマスを祝い、そういう祝い事が、学校や会社の人間関係の構築に使われていないだろうか。自覚のない神道信者が、他の宗教者を差別するのはよくない。

自分の所属する宗教を、堂々と紹介できる社会出会ったらよいのに。

ところで、

https://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2019110690135430.html

上のニュースには驚いた。政権を批判した内容の芸術に、日本政府がこのように反応するとは。

神道では、上位の権威には黙って従えという教えがある。批判することは悪いことだとは思っていないと、多くの人は言うかもしれないが、心の中のどこかで、批判に対して罪悪感を感じている人も多いと思う。

それと同時に、批判の目的についても考えた。批判される側が、聞く耳を持たないのであれば、批判の意味がないような気がする。
時に、批判の目的は、物事の改善ではなく、もっと別のところにある。
世界中で、今、デモンストレーションが行われているが、彼らは、何を求めているのだろう。きっと、人によって違うのかもしれない。

何を隠そう私は庶民の味方ではありません

私は、正直、庶民的なものは、あまり好きではありません。お茶の間という言葉に、親近感も感じません。下町の人情は、ありがたいとはいえ、私の住む世界でもありません。
ご近所の皆さんは、嫌いではありませんが、何か自分の世界ではないと感じます。音楽も、ポップなものは退屈に感じます。漫画の世界も、どうしても好きになれません。
みんなと気さくに話すのに、神経を使いつかれてしまいます。
日本間に、夕日がさして、畳がオレンジに光る風景を想像すると、本当に、憂鬱になります。
庶民的な男性に、まったく興味がありません。夫はというと、生活感があまりないので、助かります。別に上流階級ではないですが、あまり浮ついたことは言いません。Honeyなどと気色の悪い呼び方もしません。

だから、漫画は嫌いです。どんなに上流階級を描いていても、どこか庶民的で、それがどうも神経に触ります。私は、上流階級でもなんでもなく、ただ、空中を漂いながら、我が道を行く、デイドリーマーのようです。正直、私は貧乏です。

好きなものは、現代音楽、Arvo Pertoが特に好きです。それから、絵画はシュールなのも好きですが、18世紀後半からのヨーロッパのものが好きです。音楽もそうです。深くて重いものが好きです。それ以外は、興味があまり持てません。 正直、軽いものは退屈なのです。本当にすみませんと、あやまりたくなります。

そんなこと言うと、嫌がられるかもしれませんが、そうなんです。

でも、普通のインテリとも気が合いません。普通のインテリさんは、やはり庶民的なものに、安らぎを感じるらしく、勉強は我慢してやっている方も多いからです。私は、一生懸命勉強はしていません。勉強になることはしていますが、勉強しているつもりでしてはいません。いつも、空中を浮遊して、考え事をして楽しんでいます。ただ、自分でやると決めたことは、しぶとく何十年も考え続けます。ゆっくりゆっくり考えます。考えているのですが、人は、私がただボーとしていて、人の話を聞いていないと思うようです。確かに、聞いていないことも多いですが、たまに聞いています。

私は、庶民文化を楽しんでいる人々に時々嫉妬を感じます。それで、真似することがありますが、嘘をついているようで、空しくなります。キャーと、騒ぐ人々を見て、「どうしたらあんなことができるのだろう。」と考え始め、自分がその場にいなくてよかったと考えます。きっとその場にいたら、変な人だと思われるでしょう。

私と同じような人、他にもいたら、ぜひお話してみたいです。

人々はとにかく有名人を遠慮なく批判する

不思議なことに、有名人は、容赦なしに批判され、プライベートな行動まで観察される。
批判者は、本人がそれをされたら、さぞ怒るだろうなというようなことを平気で有名人に対してやる。


ある、漫画風の動画を手伝おうとした。内容は、倫理的な内容で、健全そうなのだが、一か所、某有名人の批判が入る。それも名指しで。
これが有名人ではなく、友人なら、人間誰にも間違えがあると、大目に見てもらえるのだけれど。平気で個人名をあげられ、プライベートな失態が明るみに出る。

私が動画の矛盾を指摘したら、こんどは音信不通になった。ストーリーは、事実に基づいているとされている。だから、きちんと調べれば、情報が正しいかどうかすぐわかるのだ。やはり、自分がかかわるものは、きちんとしていないといけない。特に、倫理的に人に影響を与えようとするものはそうだ。でも、批判ではなく、良いものを作ることに関わりたかったからなのだけれど、「仕事」としてみてはもらえなかったらしい。

私はこのまま音信不通であればいいとひそかに思っている。もし、きちんと反省、または反論してきたら、尊敬ものだ。良いものを作りたいという熱意は、こういうところに現れる。何も言ってこないのは一番悪い。

批判する人間は、さぞかし批判されても動じないだろうと思われるが、意外と、自分が批判されるのには耐えられない人間が多いようだ。ずけずけとものをいう人間に、ずけずけと物を言うと、驚くほど傷つく。自分のことを棚にでも上げなければ、人のことは批判できないものだ。

Friday 1 November 2019

飛蚊症

長期にわたってPCを見た後に、突然目の中に、真黒なインキを垂らしたような映像が現れた。それが流れて目の中に広がってゆく様子は、恐ろしいものだった。

数日でだいぶ良くなったものの、まだ目の前が、ぐちゃぐちゃしている。

一句書いた。

a drop of ink
in my right eye
blocking my sight

見なくてはいけないのに、見えないものはたくさんある。
人生の目的はその一つだと思う。

私は、証明された神の存在を認めることによってのみ、それらが見えてくるのだと思うけれど、その証明は、客観的で、現実的ないといけない。

でも、世の中は、主観的な証拠に基づいて、神を信じている人が多い。
 それは、科学の世界でもそうだと思う。ただ、宗教と科学の違いは、証拠が主観的なものだということを、宗教者はある程度認めているが、科学者は、それを認めるのが難しい。確かに、表面的には、科学的な説明というのがあって、それは非常に理論的に構成されている。でも、その土台はどうだろうか。
多くの科学は、偉大な科学者の空想に基づいているのではないだろうか。
例えば、進化論を唱えたダーヴィンは、確かに素晴らしい科学者だと思う。しかし、進化論は実証することができない理論だ。
それでも、様々な科学的理論がその上に建てられている。

偉そうなことを言うけれど、これが私の正直な気持ちだ。

もし、人間の存在に目的がないというのが本当ならば、どうしてそんなことを人間は考えるのだろうか。それを必要とするのだろうか。

私たちは、本当に、少しのことしか見ていない。

忘れていた

 最近、音楽を聴こうという気分になった。それで、何を聞こうと探していたのだけれど、聞きたいものが特にない。それでも何か聞きたいので、まず マックス・リヒターが、アレンジしているビバルディの春は、気持ちがよかった。 その後、 ブラームス、それで何か、もっと新しくて、感動できるものと...