Tuesday 30 April 2019

ロヒンギャに関するドキュメンタリ

アルジャジーラのロヒンギャに関するドキュメンタリを見て、ふと思った。
ミャンマーの人々は、ロヒンギャが、バングラデシュから来た移民だと考えている。
そして国を乗っ取ろうとしていると思っている。

仏教徒として可哀そうだと思っているらしいのだが、国を乗っ取る人々を許してはならないと考えている。市民権を与えてはいけないと考えている。

ロヒンギャたちは、自分たちが昔からミャンマーに住んでいて、バングラディシュ人ではないと言っている。もしかしたら、誰かから洗脳されているのかもしれないと思うほど、多くの人が口をそろえて言っていた。

こんなことは、歴史を見ればわかることだと思う。でも本当に重要な問題は、「国家」とは何かという事だろうと思う。世界共通の定義がない。

例えば、日本は日本人のためにあると考える人も多い。

国家=民族という考えは、戦火を逃れて自国を離れる人々に対し、社会生活を送るために必要な保護や援助を与えることに疑問を投げかける。




Saturday 20 April 2019

人種差別

見慣れないものから離れようとするのは、ごく自然なことかもしれない。
以前、アメリカ人の友人たちが、ドイツの田舎でキャンプをしていたところ、ネオナチに襲われた。幸い、キャンプ場の支配人という女性が、これらネオナチたちに、「お前らはドイツの恥だ」と声をあげ、すぐに警察を呼んでくれたので、大事には至らなかった。立派な女性だ。

20年ぐらい前は、田舎、つまり、今まで黒人を直に見たことのない人が多く住むところにネオナチたちはたくさんいた。勿論都会にもいる。以前住んでいた街は都会だったが、そのすぐ近くで、トルコ人家族が家を燃やされて、子供たちも含め焼死してしまった。

田舎には特に、なじみのない人種に対する違和感、嫌悪感を感じる人々が比較的多くいるようだ。白人の中には、人種差別はいけないと知りつつも、どうしても、アジア人になじめない人々もいる。実際そういう人々に何度も出くわした。ひどいのになると、日本に住んでいながら、そういう白人もいた。
 そういう人々は、特に、社会的な恨みも何もない。でもどうしても異人種になじめないのだ。そういう人種差別者を、田舎者と呼んで差別したくなるが、 それは、彼らと、田舎の人々に対する差別となってよろしくない。

まあ、人間だれしも、 特定の種類の人々に対し、優越感や劣等感を持っている。それがたまたま人種の違いからきていると、人種差別という事になる。

そういうものは、頭で理解して、少なくとも行動や判断に自分の差別的感覚が反映されないように、気を付けなければならない。

または、そういう人々と敢えて接してどういう人々かを観察し、自分を慣れさせるのが、良いのかもしれない。

Friday 19 April 2019

最近のデモンストレーション

環境に関するデモが、ここ最近流行っているようだ。
しかし、集まって、権力筋に訴えても、彼らには解決策がない。

声高々に訴えても、そもそも、当局には能力がないのだ。

デモを行う人々は、きっと良い人たちだろうと思う。でも、彼らの真ん中で、
「ねえねえ、君たち、政府に訴えたって、彼らにだってこの問題は解決できないよ。もしかしたら、もう手遅れかもしれないよ。」と言ったら、袋叩きに合いそうな気がする。

私の頭の中身を、そのままお見せすると、いろいろな団体から袋叩きに合うだろうなと思う。

環境問題というのは、奥が深くて、いろいろな問題とつながっている。人間は、希望を必要としている。本当は絶望状態であっても、何とか希望を見出そうとする。現実を直視することで希望を見出さない限り、その希望は、タダの嘘になってしまう。

環境問題は、長い時間をかけ、深刻化していった。人間社会が、利潤追求を行っている限り、悪化をとめることはできない。

でも、仮に、非常に素晴らしい政府が、人類愛というものをベースに体勢を立て直し、最高の科学者をつかって、環境問題に取り組んでも、すでに手遅れだろうと思う。

人間一人一人の価値観や生活習慣が改善されなくてはならないが、それを行うのはものすごい時間がかかる。環境の劣化のほうが早く進むであろう。正直、このまま行くと、確実に地球は生き物が住めないところになる。そんなことはみな知っていることだろうと思うけど。でも、認識しては暮らしていない。

美しい場所に誰もが住みたいと願う。しかし、その反面、環境を破壊する結果となる生き方を変えたいと思う人は少ない。小さなことでは、喫煙、物欲、名声欲などがある。

人間には、今抱えている多くの諸問題を解決する能力はないのだというと、「なんて希望がない」と思うかもしれない、しかし、これは事実であると思う。

Thursday 18 April 2019

脳死と通夜

 あるニュースが目に留まった。
死後4時間経過した豚の脳機能を回復させることに研究者が成功 -


通夜という習慣は、遺体を一夜ほど寝かす習慣だけれど、数が多くないとしても、「生き返る」ことがあったようだ。本当に死んだものが生き返るわけがないから、正確に言えば、「死んでいなかった」のだろう。

脳死をしていれば 死んだと認定されている。しかし、私の大学の医学の教授は、脳死は死ではないと主張していた。脳死の状態は、失神している状態と似ているらしい。

それが本当だとすると、死体を寝かせて一夜待つという通夜は、良い習慣だったと思う。

教授は、内蔵の提供のために、脳死を死と認定する法律ができることを、大変恐れていた。それはかれこれ、30年以上前の話だ。

今や彼の恐怖が実現した。その教授がまだ生きているかどうか定かではないけれど、最近の脳死に関するニュースを読んで、 背筋が凍るような思いでいるだろうと思う。

死んだとされる豚の脳が生き返ったというニュースから、そのことを思い出した。

死んだ豚ではなく、死んだように見えていても、実は死んでいなかったのだ。死んだら、体の一部も生き返るはずがないから。

Wednesday 17 April 2019

すべてのソーシャルメディアをやめて

先月Twitterをやめた。その数か月前にFacebookのアカウントを削除し、その前にはある英語学習のコミュニティーが終了となった。
Facebookは、友だちなるものが150人ぐらいいて、特に問題はなかった。ただ、Twitterにしても、Facebookにしても、面倒になってしまった。
これで、自分のブログや、詩のサイトを紹介する機会もなくなった。
ほとんど一人で書き綴り、それを読む人もほとんどいない状態だ。
読者を増やすつもりもない。

池を作って放置すると、そこに生物が湧いてくる。
ブログを作って、ただひたすら書き、放置してみようと思う。
何かが湧いてくるかもしれない。

鼻持ちならない権威主義に対抗するために権威主義を利用しないようにするのは大変だ

水戸黄門という番組があったけれど、権威を盾にとって、可哀そうな民衆を苦しめる悪人を、もっと高い権威から成敗するという番組だ。
権威には、権威でしか抵抗できないのだろうか。悲しい。

確かに権威そのものが悪いのではない。権威を世のため人のために使ってもらえるなら、ありがたいことかもしれない。でも、そんなことが上手くできる、心優しい権威者というのは少ないだろうと思う。そもそも、貧乏人の気持ちを金持ちが理解するには、かなりの高いレベルの思考力と想像力、そして、いわゆる「仏様(私は信じてないけど)のような慈悲の心がないと無理だ。

権威者が必ず金持ちだという事ではないけれど、まあ、金力、権力、あとポピュラリティは、世の中を渡ってゆく力だと言える。

でも、芸術の世界に、権威主義はよろしくない。

どこそこの偉い先生の配下にあるというだけで、評価され、威張られても困る。究極的に、芸術は自由で、上下などつけられるものではないと私は考える。競争心丸出し、権威主義的な芸術家など、鼻っから信用できない。作品だけで、勝負しておくれと言いたい。


テネリフェで、いい加減な日本文化を教える人がいるというが、もちろん私のことではない。私は日本文化を教えようなどとは全く思わないし、頼まれても、よっぽどお金をもらわない限り断るつもりだ。でも、いい加減な日本文化だから、楽しく習う人がいるのではないだろうか。そもそも、日本文化にオブラートを書けない限り、西洋人が楽しく学ぶことはできないはずだから。

こんなこと書いても、誰も読まないかもしれないけれど。




日本と日本文化に対する執着心のなさ

海外に住むと、無性に日本食が食べたくなるという時期があるようですが、私の場合、材料が手に入りにくいことや、比較的高価であることだけではなく、特に必要を感じないので、本格的な日本食は食べていません。
また、海外にいると、日本人という事で、日本の伝統文化に絡ませて、自分の作品を紹介する人もいますが、私にはそういう気持ちが全くありません。

私は確かに、日本で生まれ育ち、その文化の影響を受けていますが、日本文化を前面に押し出して、自己表現したいとは全く思わないのです。それをすると、嘘になるからです。

日本文化への理解を 深めたいというのは、自己を模索する理由であって、それを利用したいとは思わないのです。

むしろ、無国籍状態を目指してゆきたいです。

国家主義がもたらしてきた罪悪を日々観察していると、特にそう思います。

勿論、日本文化の良さも認めているつもりですが、日本文化があまり理解されていない海外で、自分の力量のなさを隠すための隠れ蓑として使うのは、好きではありません。

Saturday 13 April 2019

私はなぜコラムが苦手か

自分の書いたものを読み返してつくづく思う。人を引き付けるような文章は、私には無理だと。何がいけないかというと、多くの人との共通点が、少ないのだとおもう。

絵画や音楽は、作者の考えというものがそのまま直接的には表現されない。何らかの形でされたとしても、それ以外の、色や音、形などの美しさで人を引き付けることができる。でも、文章ではそういうわけに行かない。美しい文章というのもあるけれど、やはり、絵画や音楽と比べると、考えがそのままズバリと出る。それでも詩は、間接的な表現ができる。それで、私は詩を書くことは、楽しいと思う。でも、コラムは、うまく書けない。日本語の文法の問題ではなく、表現される考えが、誤解を招くか、多くの人と異なってあまり共感されないという事だろうと思う。

Friday 12 April 2019

大きな隔たり

こんなことを書くと、嫌がられるかもしれないけれど、私には、多くの人々が楽しんでいても、私には退屈で仕方がないものがたくさんある。

ある種の音楽もそれに含まれる。アップビートで、いかにもユーモラスで、普通人が楽しいとか、面白いとかいう音楽が流れてくると、それが終わるまで黙って耐えている。

サーカスの道化も、終わるまで黙って耐える。人々が大笑いしている時に、私は必死に退屈さに我慢している。

映画では、人々が興奮してみる、チャンバラシーンや、カーチェイス、喧嘩の場面、スーパーヒーローの戦いを早く終わらないかと我慢している。

スナップ写真も、我慢している。自分では取らないけれど、好きな人もいるので、拒否はしないけれど。

 スポーツ観戦も苦痛だ。

自分の興味や関心が、あまりに人と違うので、いろいろ遠慮をして、我慢して生活してきたけれど、その我慢を、そう簡単に人に見せるわけにもいかない。そういうことで、自然に付き合いが嫌いになってきた。

周囲にあって手に入りやすいものから 、喜びを得ることができないので、一生懸命良いものを探していた。喜びがなければ、生きている理由がない。でもその喜びというのは、楽しい生活という事ではない。深いものに接した時に味わうことができる感動や、何かを成し遂げたときに味合う達成感なのだろうと思う。

私は、そういう意味で、根っからの堅物なのかもしれない。その割に、決まりを守ることは大の苦手なのである。

いったいどういう人間なのだろう、私は。。。


空白の頭

テネリフェについて記事を書こうとすると、アウトライン以上に突っ込むことができず、何とも言えずつまらない記事になってしまう。それほど、テネリフェの文化に入り込んでいないようだ。人付き合いもあまり得意ではなく、子供のころから一人で、家の中に閉じこもり、本を読んだり、絵を描いたり、歌を歌ったり、一人で遊ぶことが多かった。テネリフェにも、日本人の集まりがあって、いろいろ楽しんでいる人も多いようだけど、どうも、大勢でワイワイするのは、心底苦手。そういうことが好きな人は、周囲からいろいろ学び、その文化を味わう。やはり、テネリフェについて書こうとすると、頭が空白になるのは、私のそうした、孤独好きな性格が原因だろうと思う。


 崖っぷちのアパートの窓から見える風景に、心ときめかせても、これは文化ではない。風景画を描くことはできるけれど、この景色からテネリフェを十分語ることはできない。




Wednesday 3 April 2019

血が語る

私は占いは信じないし、そういうものに操られて人生を送りたくないと思っているけれど、どうしても、血液型については考えてしまうところがあります。
血というものは、あまりにも不思議な液体で、動物や人間の体の中で、いろいろな役割を果たしています。酸素や栄養を体中に運搬したり、体に侵入した悪者をやっつけたり、傷を治したりなどが挙げられますが、多分、血液の働きについて、まだまだ分かっていないことがたくさんあるだろうと思います。生物学的な意味でも意味深いのですが、さらに、心理学的にも、宗教的にも、血液は重要な意味を持っています。

聖書が血に言及しているところを、ざっと見ますと、
創世記9:4、レビ記17:11、14、使徒15:20、コロサイ1:20などが挙げられます。
こうした聖句を総合しますと、
1.血は魂(命)を象徴する、
2.血は神にとって神聖な者、
3、血を食べてはならない、
となります。

単刀直入に言ってしまうと、血は魂、つまり、動物や人間そのものを表します。(ヘブライ語ではネフェシュ[נֶפֶשׁ]、ギリシャ語ではプシュケー[ψυχή] お手数ですが、この意味についてご自分で検索してみてください。)




さらに、血を実際に見たときの、心理的な影響なども、興味深いものがあると思います。
血を連想させる赤、それを見て、人はいろいろなことを感じます。情熱、怒りなどを表現するには、赤は最適な色です。他の人の注意をひく色でもあり、広告業界では、目玉商品やセールの表示に使われています。

こうした赤を、特別な色にしているのは、人間が血に抱く、特別な感情があるからでしょう。

忘れていた

 最近、音楽を聴こうという気分になった。それで、何を聞こうと探していたのだけれど、聞きたいものが特にない。それでも何か聞きたいので、まず マックス・リヒターが、アレンジしているビバルディの春は、気持ちがよかった。 その後、 ブラームス、それで何か、もっと新しくて、感動できるものと...