Sunday 29 December 2019

防衛とは

何を隠そう、私は小さいころから、徹底した反戦教育を受けてきた。親は、自衛隊すらも「軍」であるので、存在すべきではないと私に語っていた。理屈としては、「自衛隊すらも持たない国を攻撃するような国はない」というものだが、50年以上前は、こういう理屈も「なるほど」と思えたのかもしれない。今は、こんなことは誰も信じないだろうなと思う。

私は今でも、理想的な社会は、軍備が一切ない社会であると信じているのだけれど、現実問題として、今の社会体制に、この理想を掲げるのは無理だろうと思う。 米軍基地の周囲で、平和活動している人々の気持ちはわかるが、あまり現実的だとは思えない。

日本の自衛隊が、中東に派遣されるということで、これは、自衛隊の域を超えた、国際軍への参加なのではという意見もあるようだけれど、実際、日本国を守るためには、日本にとどまり敵の侵入を待つだけという理屈は、現在ではもう通らないのではないだろうかと思う。
国際社会の一員として、日本の責任というのもあるだろうし、そして防衛とは、侵入する敵を待つのではなく、敵に侵入されないよう措置を取ることだとも思う。

私は、地球上のに国境がある限り、本当の平和というのは到来しないと信じている。
平和を求める人々、環境の改善を求める人々が、多大な努力を払って活動しても、それを成し遂げるための土台が今の地球には存在しない。

私の希望は、戦争のない地球なのだけれど、これは、平和運動では成し遂げることはできない。平和運動では、人間の生き方、人生の目的など問題の奥の奥までは追及できない。人類が求めてきた重要な質問の答えが出せない限り、環境の問題も、戦争の問題も続いてゆくだろう。

 以下、イザヤ2章4節
New International Version
He will judge between the nations and will settle disputes for many peoples. They will beat their swords into plowshares and their spears into pruning hooks. Nation will not take up sword against nation, nor will they train for war anymore.







Saturday 7 December 2019

日本人の読解力の低下

日本人の読解力が低下している。
日本の読解力低下=“考えが違う人”との議論少ない? 若新雄純氏「立体的な思考が必要」

残念なことだけれど、私もそれをひしひしと感じる。
考えが違う人との議論が少ないことが、一つの原因として挙げられているけれど、確かにそれは事実だと思う。
私の考えとしては、まず、考えが似ている人と話す際、話が予測できるので、きちんと話を聞かなくなるし、話し手も、いろいろなものを端折って話せばよい。そうであれば、確かに、表現力も読解力も身につかない。

この記事の中には、紙の本を読むことを進めていたが、紙の本は確かに、しっかりした文体で書かれているものが多い。一理ある。
しかし、オンラインの記事の多くは、校正が入っていないものが多く、日本語の文法の間違えが多くみられる。
翻訳の日本語原稿で、きちんとした日本語で書かれたものは少ない。
日英訳の本当の難しさは、そういう日本語を理解することだと思う。文意を読み取るということ、それを英語で表現すること。

Monday 25 November 2019

勝手に思い込んで突き進む人々

人生経験が多いといっても、人ひとりが経験できることなど、たかが知れている。
様々な環境といっても、70,80年の人生で、どの程度の経験ができるだろうか。
世界は広い。人間の歴史の何千分の一を経験したからと言って、何がわかるだろうか。

人の話を半分だけ聞いて、すぐに何かを判断する人間の多いこと。

車を売りに出した。ミニクーパー、右ハンドル、スタートしない、部品取り用、2500ユーロ。

たくさん問い合わせがくる。それで、右ハンドルで動かないというと、すぐに、あきらめる。書いておいたのに、半分しか読んでいない。時間の無駄だ。

人の話をきちんと聞いてほしいものだ。

ミニクーパーと、2500ユーロが、トリガーとなって、衝動的に行動する。

それと同様、人の行動を促すキーワードがある。そのキーワードは、文章から独立し、人の行動のトリガーとなる。

時にマスコミは、それを悪用する。

発言全体を紹介せず、都合の良い部分だけ切り取って、報道する。

どこかの会社が、変なメールを送ってきた。
中古車販売の会社なら、その証拠を出せとか、 ここで車は売れるけど、買うことはできないと。人のことを知らず、勝手に、スペインの居住者資格がないと思い込んでいる。それでこういう変なメールを送ってくる。

世の中、思い込まない人のほうが少ないのかもしれないと感じる。

世界は人々の勝手な幻想に支配されているのだ。空恐ろしい。

ご近所さん - 多国籍コミュニティ

私のご近所さんや、時々顔を合わす友人たちの話。

私の隣の部屋のおばさん。彼女は、何人なのか忘れたけれど、スカンジナビアの国の一つ。しょっちゅうバルコニーからうちの窓をたたいて、色々話しかけてくる。

同じ階に何人かドイツ人がいる。以前同じ階に、イタリア人の女性が住んでいたが、彼女はイタリアに引き上げた。その時に、壺やお皿をもらった。

2人の韓国人がいる。一人はすごくおとなしい。もう一人は、しょっちゅう犬と外を散歩していて、良く話しかけてくる。彼女と話すときは、英語とスペイン語とドイツ語をまぜこぜにして話す。

一番上の階には、スロバキア人と、ポーランド人の夫婦とその子供たちが住んでいる。スロバキア人の旦那さんは、自動車修理工で、彼と話すときも、英語とスペイン語とドイツ語をまぜこぜにして話す。奥さんは英語が流ちょうに話せるので、英語で話す。

私の住む階の下に、イギリス人の中年女性がいる。顔を合わせると挨拶する程度。

時々、ドイツ人の年寄夫婦に合う。奥さんと、エレベーターで出会ったときドイツ語で、話をした。話をしたといっても、私は、特にドイツ語を学習したわけではない。でも、ドイツのは5年ほど住んでいいた。なぜかわからないが、一応何となく会話ができている。不思議だ。

イギリス人は、夏場になると、現れる。家からあまり外に出ないので、あまり交流はなく、たまに顔を合わせると、立ち話を2,3分するだけだ。


私の友人だけれど、まず、年寄りのイギリス人。よく気を使ってくれる。でも、スペイン人の友人たちからすると、イギリス人は愛情の表現がうまくないという。日本で育った私は、そんなことはないと感じる。
ドイツ人の友人はイギリス人よりも、人間関係に深く入り込んでくる。冷静で、知性的だが、哲学的でもある。その部分で、深い人間関係を求めるのかもしれない。しかし、我が道をしっかり歩いている。その点イギリス人は、ドイツ人より人の顔色を見る傾向を感じる。イギリス人は親切だけれど、「私は親切なのよ」といった表情は出さない。優しさや愛情は、実際的、効果的な行動で示してくれる。ドイツ人もそういうところがあるかもしれない。
良くドイツ人は日本人と似ていると、日本人の口からきくが、私はそう思わない。
ドイツ人は、日本人と全く逆といっていいほど独立心に富んでいる。そして、論理性を優先する。付き合っていて非常に楽だ。論理が正しい正しくないかに関わりなく、空気をほとんど読まず、単刀直入にものを言ってくれるのは、私にとってとてもありがたい。その点、イギリス人はもう少し「配慮」するので、やや面倒くさい時もある。そういう意味では、イギリス人は日本人と似ている。しかし、日本人よりも、論理性と個人が優先される。
イギリス人、ドイツ人両者は、論議をする。そしてそのことを負担に感じない。これは本当に助かる。

アジア人の友人たちもいる。彼らは実利的だ。しかし、ヨーロッパ生まれのアジア人は欧米化している。ヨーロッパ生まれのインド人の多くは、非常に理知的で、繊細で、アジア人のいいところと、ヨーロッパ人のいいところがうまい具合にミックスされている。イギリスで、多くのインド人が知的職業についているという印象がある。

中国人も多い。友人にはあまりいないが、行きつけのチャイニーズショップの女性は、実利的に賢そうだ。

フィリピーナは、たくましいという印象がある。彼女たちは弱みを見せない。フィリピンに住むインド人の友人が、「フィリピーナは弱音を吐かないので、インド人はその点、きつく感じる」と言っていた。

アフリカ人は、一般的に愛情の表現に富んでいる。時々、非常に個性的な人がいる。

スペイン人は、ストレートな人々だ。声もでかいけれど、頭に浮かんだことがそのまますぐ言葉になるような感じもする。でも、ベネズエラ人は、もう少しおとなしくて、繊細な人が多い。親切で、器用な印象もある。

スペイン人といっても、私の知っているのは、テネリフェのスペイン人で、どうやら本土スペインとは、異なるようだ。


Friday 22 November 2019

和英辞典、英和辞典に頼ってはいけない

言葉は、人々の生活とともに変化する。新しい言葉が生まれたり、言葉が消え去ったり、意味が変わったり、変化したりする。

英和辞典を引くと、一つの言葉にたくさん意味が載っているけれど、それを読んでも、その言葉の使い方が完璧にわかるようになるわけではない。

だから、英和辞典を丸暗記して安心していてはいけない。

まず英和辞典の情報を、疑ってみよう。 そこにある事例を検索し、実際人々がそういう言葉を使用しているのかを見る。英語のサイトだからといって安心してはいけない。そのサイトの文章を書いたのはどういう人かを見よう。英語圏の人によって書かれたものであれば、ある程度は安心だけれど、できたら複数見て比べてみよう。
 
英語圏のサイトなら何でもいいというわけにはいかない。信頼できるサイトを選ぼう。
良く知られている、ニュースサイトでも、間違えはある。だから、複数見比べないといけない。


Monday 11 November 2019

人の上に立ってはいけない!

学習塾の宣伝のチラシに、
「人の上に立つ人材を育てる」というのがあった。
リーダーになりたいと、多くの人が考える。
高い地位と、人生の成功を関連付ける人々が大勢いる。愛する子供にも、高い地位について、幸せになってもらいたい。多くの親はそう考える。
でも、この考えは、不健康な社会を反映している。
 人と比較することによってのみ、人生の成功の度合いを計ることができない人は、常に、他人と自分を比較して生活することになる。つまり暗くて苦しい、孤独な人生を送るということだろうと思う。

すべての人がリーダーになることはできない。そして、上には必ず上がいる。これが現実だ。

「人の上に立つ人材を育てる」というのは子供を不幸にする特効薬のようなものだ。

幸福は、外側からの環境によって左右されるというよりも、自分の置かれた現状をどうとらえ、希望を失わずにいられるかにかかっている。親が教えなくてはいけないのは、そういうことだ。

Sunday 10 November 2019

Art and Craft (2014)から

https://www.imdb.com/title/tt3654964/

実にいいドキュメンタリーだった。

Mark A. Landis  

この人は、絵画の模写をしている。そして出来上がったものを、無料で寄贈している。
直接実物を見ていないが、その模写は、本物のような迫力があり、見る人に迫ってくる。実に見事な模写だ。
実際、原画のサインまで模写している。

多くの人は、これを犯罪と呼ぶかもしれない。しかし彼は、こうした行為から利益を受けていない。彼の動機はもっと深いところにある。イエスキリストが、宣教活動を彼の食物と呼んだように、彼にとって、こうした行為は「食物」のようなものだとドキュメンタリーから判断できる。

彼の模写のすばらしさに魅せられて、多くの人がサポートをしている。ついに彼の個展が実現した。見に来た人々は彼の模写に深い感銘を受けたが、多くの人は、「素晴らしい、でも、あなた自身の作品を見たい。ぜひ、あなたの作品を描いてほしい。」と言っていた。

私は彼らには同調できなかった。

音楽の世界では、演奏家が他の人の作った曲を演奏する。
どうして、絵画の世界では、他の人の描いた絵画を模写できないのか。

演奏家は、模倣芸術家として位置づけられているのに、なぜ、絵画には模倣芸術家がいないのか。

演奏家は、楽譜を読み、曲を解釈し、演奏する。同じ楽譜を演奏しても、演奏家の解釈や力量で、出来上がる作品は異なる。なぜ、絵画の世界にはそれがないのだろうか。

今まで、こういう角度から物事を見たことがなかった。

ただ、最近周囲を見回して思うことだけれど、画家の技術のレベルが、古典画家のレベルとはかけ離れている。大学時代、基礎となるデッサンがまるでダメなのに、作品はそれなりに仕上げる学生が大勢いた。でも、そういう作品は、まるで表面的で、奥行きを感じないものがほとんどだった。まあ、短期間部屋に飾っておくにはいいかもしれない。

マーク・ランディスの技術は、古典的画家のレベルに達しているのだろうと思う。さらに、作品から滲み出している力を感じる。彼は、模写した作品に、自分のサインではなく、きちんと(?)原画の作者のサインをし、彼自身に栄誉を帰していない。

野心や、物欲によって汚されていない、有能な人物に出会うというのは、実に素晴らしいことだ。


Friday 8 November 2019

福祉政策は隠されている!

ドイツ、アイルランド、スペインに住んだことがある。
本当にどこに住んでも貧乏だった。いろいろな助けを探した。まず、その国の居住権を得るための情報を探すのが難しい。どこに行って、何をすればいいのかという手続きを見つけるのに、かなり苦労する。当局の人たちも知らない場合もある。

ドイツは、いいほうだったと思うけれど、福祉事務所の存在を知ったのは、友人からだった。そこに行って、すべてを説明すると、生活に必要なお金がもらえる。4年目にして初めて知った。

 アイルランドは、寒かったので、10か月ほどしてから逃げ出したが、ここは、登録するのに、警察と、事務局の意見が対立し困った。

スペインも、登録の情報を探すのにすごく苦労をする。
最近友人を通して、良い情報を知った。今まで、いろいろな人に聞いたが、だれも教えてくれなかった情報だ。これで少し、楽になるといいのだけれど。

夫は、線維筋痛症なので思うように働けない。今まで、日本でも、何の助けもなかった。冬になると3か月ほど寝込んだりしていたのに、全く、援助がないのだ。今は、痛みを我慢して、できることを何とかしているが、普通の仕事には就けない。

 それでも、私たちの外見は、健康でお金があるように見えるらしく、自分たちの状況を説明しない限り、だれも私たちのことはわからない。

イギリスでもそうだけれど、福祉政策は隠されている。あまり、それを使ってほしくないからだ。あまり、移民は欲しくないし、いろいろな情報が隠されている。イギリス大使館に尋ねたら、夫のために何もできることはないと言っていたが、それは嘘なのだ。もしくは、こういう人たちも知らないのだ。実は、申請すれば福祉の恩恵を受けることができると。それは、なるべく周囲に知られないようになっている。

Thursday 7 November 2019

自己防衛による自滅

最近は特に、人を信じるのが難しくなり、「匿名」を使う機会が多くなってきた。
「匿名」で、意見の交換だけではなく、仕事までできる。
変なことに、匿名を使い、オンライン上でコミュニティーに属し、有名になる人もいる。

人間関係に信頼性がなくなると、匿名も増える。
 自己表現にも制限をかけないといけない。

それが進んでゆくとどうなるか。

ひきこもり。

批判や中傷から身を守る。

自分を社会から抹消する。

存在の意味を失う。


不審な人物から離れているのは重要だけれど、情報を限定しすぎると、自己の存在の意味がなくなる。

知らないものはすべて疑ってかかるよう、日本では学校で小さいころから教えられる。

知らない人とは話をしない。

これは、世界的レベルから見ると、かなりの異常事態だと思う。

「立ち入り禁止」という標識が、足場の悪い観光地のスポットにみられるが、
イギリスでは、「ここから先は自己責任」という標識になっている。

つまり、日本では、疑わしいものは、すべて「禁止」にする。考えて判断する必要がない。 疑わしい見知らぬ人を助けることのリスクが強調される。人間関係が軽薄になっている状況からすると、ほとんどの人が「見知らぬ人」となり、人を思いやるという気持ちも消え、やがて社会は破滅する。

自己防衛の行き過ぎは、破滅につながると思う。

Wednesday 6 November 2019

食事ができるということ

先月、家賃と、政府が個人業者に強制している社会保険を払ったら、何もお金が無くなってしまった。さて、何を食べて生きてゆこうかと思った。

実は、私たちは、結構きれいなアパートに住み、ミニクーパーに乗り、良い洋服のもらい物が多く身なりもよいので(自分で言いますが)、とても貧乏には見えない。

しかしどれも、安くてすんでいる。本当に貧乏なのだ。以前から残っている食べ物を食い尽くし、50ユーロぐらい月の半ばに入ったら、別の支払いに飛んで行くけど、30ユーロぐらいで、1週間食べるために、すごい工夫をした。買うものは、玉子、小麦粉、ベーキングパウダー、牛乳、鶏肉、砂糖、玉ねぎ、にんじん、豆、一番安いビスケット、レモン、ガーリック、トマトソース、水などそんなものを買っておけば、何とか工夫が利く。加工食品はさける。
豆は、安いし、栄養価も高いので本当に重宝する。
手羽先を油で揚げるのだけれど、その前に、ゆでる。ゆでた煮汁は、瓶詰めにし、豆を煮る際に使う。豆を煮たら、これも瓶に詰める。 その一部を、トマトソースで味を付け、朝食の目玉焼きに乗せる。ベークドビーンズだ。熱いうちに瓶に詰めれば、冷えたときに蓋がへこむ。しばらく保存できる。ほかの煮豆からは、Hummsというものを作る。ガーリックとレモンで味付けをした豆のペーストで、ディップや、マヨネーズ代わりに使う。これもたくさん作って、一部を冷凍しておく。

結構おいしいものを食べたような気がする。さすがに月末、小麦粉と、豆しかなくなってしまって、小麦粉を水で溶いて、薄く焼いて、クレープ風にして食べた。成長期の息子のことを考えると、ちょっと切なくなった。

しかし、フィリピンには、この、小麦粉さえも手に入らない家庭がたくさんある。友人が、小さな紙に魚を書いて、ごはんに乗せて食べていたのを覚えている。半分ふざけてだけれど、実際に、ご飯しかなかったに違いない。

食べられることは、本当に感謝ものだ。

素直に書くということ

文章を書くのは苦手だ。日本語の文法とかの問題ではなく、たぶん、自分自身の持つ、他の人との共通点の少なさに問題があるのかもしれない。
どんなことに興味があるかということもあるけれど、物事に対する反応という点で、他の人と違うのかもしれない。読者の気持ちを考えて文章が書かれていると、読みやすいだけではなく、共感を与えることができる。私には、それが欠けているのかもしれない。

ちょっと自分でも驚いたのは、私は現在、英語で詩を書くのが楽しくて、ここの所立て続けに詩を投稿している。昨日、コンテストでGoldをいただいた。

https://allpoetry.com/contest/2736097-Create-a-minimalist-poem--11

日本語では詩がうまく書けないのだけれど、母国語でもない英語では、気兼ねなく、自由に書けるのは、どうしてだろう。

私は、依然、韻を踏んだ詩を、苦労して書いていたのだけれど、今は、英語の俳句を書いている。私の場合、字数は数えないし、季語も無理に入れない。自分で、haikish short poemと呼んでいる。感情を表す言葉を使わず、状況描写だけで、考えや感情を示唆するという、楽しい言葉遊びだ。
 ちなみに、11月5日に書いた俳句を一つ紹介しよう。

a sleeping kitten
hiding claws among soft paws
an innocent beast

特にひねりも技もないし、韻も踏んでいない。通常英語の俳句は大文字は使わないし、theという御堅い冠詞も使わない。さらりと書いて、読むほうが深読みをする。

私はこれが楽しくて仕方がない。



Monday 4 November 2019

海外の日本人社会

以前読んだ記事で、こういうのがあった。
タイだったと思うけれど、生活費が安いので、そこに引っ越した独身女性がいた。彼女は、美容師で、タイで十分豊かに暮らせるほどの収入があった。
しかし現実はとても苦しい生活をしていた。
たいていの国に、日本人コミュニティがある。交流が盛んで、よく飲み会などがある。彼女は、そういうことで、日本人同士の付き合いに参加していたらしい。
しかし、重なる外食や、ましては飲み会での費用は、彼女にとって大きなものとなり、生活が苦しくなった。それならそういう付き合いはやめればいいじゃないか、というわけにもいかないのだろう。オンラインでの世界もそうだけれど、日本人コミュニティと付き合うのは、ものすごく気力がいるし、飲みにでも行けば、お金がかかる。

私は、ほとんど外食しない。旅行にもゆかない。そういう余裕がない。テキストなどのやり取りでも、こまめに返事ができない。そういうことで、日本人のコミュニティに属するのは、初めから無理だ。

特にさみしいとも感じない。お金のかからない、気を使わなくていい友達もたくさんいるし。ホームシックにもならないし、食べ物にも不満はない。夫は優しいし。息子はいい子だし。

なんて恵まれているのだろう。欲を言えば、もうちょっと収入があるといいなあ。




Sunday 3 November 2019

訳ありの人々へ

最近は便利なことに、匿名でも、仕事を依頼したり請け負うことができるようになった。ネット環境下で、オンラインの会社が仲介することで比較的安心に仕事ができる。

過去に、誰かから追われている人々に出会ったことが何回かある。借金取りだったり、ヤクザだったり。
追われている人々は、悪い人々ではなく、むしろ、情に流されるタイプの、親切な人たちだった。

ネット難民という人々も、仕事をすることができる。

訳ありの人々も一生懸命働いて、世の中の役に立っている。安いお金で使われて、きついだろうけれど、頑張っておくれ。



Saturday 2 November 2019

批判の目的

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191102-00205425-hbolz-soci

ある宗教団体との関係を持つ政治家云々の話が出た。
そもそも、宗教の自由は、保証されなければならない。「小さな宗教団体=洗脳=悪い」の方程式は、日本の民衆にしっかり根付いている。これは、人種差別と同格のように感じる。

小さなといっても、それは、神道、カトリック、プロテスタント、イスラム、ヒンドゥー教の有力な団体と比べて小さいということで、本当に小さいわけではない。

私は、宗教が政治に与える影響を、あまり好ましいとは思っていないが、基本的に、それは避けられないものだとも思っている。今の政治体制は、土台からおかしいのだ。

日本人の生活は、神道の教えに深く根ざしたものではあるが、問題は、実質的な神道信者には、信者である自覚がないことだ。要は、盲目的なのである。こんな恐ろしいことはない。この盲目性が、日本の社会の精神的な国際化を阻んでいるのだと私は思う。
さらに、神道の教えは、コメの生産性を目的に形成されている。精神性は、コメの出来高で、その価値が判断される。この点、キリスト教の精神とは全く違う。悪いことに、コメがとれれば、他の宗教の教えや行事も取り入れる。
良く周囲を見渡してほしい。クリスチャンでもないのに、クリスマスを祝い、そういう祝い事が、学校や会社の人間関係の構築に使われていないだろうか。自覚のない神道信者が、他の宗教者を差別するのはよくない。

自分の所属する宗教を、堂々と紹介できる社会出会ったらよいのに。

ところで、

https://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2019110690135430.html

上のニュースには驚いた。政権を批判した内容の芸術に、日本政府がこのように反応するとは。

神道では、上位の権威には黙って従えという教えがある。批判することは悪いことだとは思っていないと、多くの人は言うかもしれないが、心の中のどこかで、批判に対して罪悪感を感じている人も多いと思う。

それと同時に、批判の目的についても考えた。批判される側が、聞く耳を持たないのであれば、批判の意味がないような気がする。
時に、批判の目的は、物事の改善ではなく、もっと別のところにある。
世界中で、今、デモンストレーションが行われているが、彼らは、何を求めているのだろう。きっと、人によって違うのかもしれない。

何を隠そう私は庶民の味方ではありません

私は、正直、庶民的なものは、あまり好きではありません。お茶の間という言葉に、親近感も感じません。下町の人情は、ありがたいとはいえ、私の住む世界でもありません。
ご近所の皆さんは、嫌いではありませんが、何か自分の世界ではないと感じます。音楽も、ポップなものは退屈に感じます。漫画の世界も、どうしても好きになれません。
みんなと気さくに話すのに、神経を使いつかれてしまいます。
日本間に、夕日がさして、畳がオレンジに光る風景を想像すると、本当に、憂鬱になります。
庶民的な男性に、まったく興味がありません。夫はというと、生活感があまりないので、助かります。別に上流階級ではないですが、あまり浮ついたことは言いません。Honeyなどと気色の悪い呼び方もしません。

だから、漫画は嫌いです。どんなに上流階級を描いていても、どこか庶民的で、それがどうも神経に触ります。私は、上流階級でもなんでもなく、ただ、空中を漂いながら、我が道を行く、デイドリーマーのようです。正直、私は貧乏です。

好きなものは、現代音楽、Arvo Pertoが特に好きです。それから、絵画はシュールなのも好きですが、18世紀後半からのヨーロッパのものが好きです。音楽もそうです。深くて重いものが好きです。それ以外は、興味があまり持てません。 正直、軽いものは退屈なのです。本当にすみませんと、あやまりたくなります。

そんなこと言うと、嫌がられるかもしれませんが、そうなんです。

でも、普通のインテリとも気が合いません。普通のインテリさんは、やはり庶民的なものに、安らぎを感じるらしく、勉強は我慢してやっている方も多いからです。私は、一生懸命勉強はしていません。勉強になることはしていますが、勉強しているつもりでしてはいません。いつも、空中を浮遊して、考え事をして楽しんでいます。ただ、自分でやると決めたことは、しぶとく何十年も考え続けます。ゆっくりゆっくり考えます。考えているのですが、人は、私がただボーとしていて、人の話を聞いていないと思うようです。確かに、聞いていないことも多いですが、たまに聞いています。

私は、庶民文化を楽しんでいる人々に時々嫉妬を感じます。それで、真似することがありますが、嘘をついているようで、空しくなります。キャーと、騒ぐ人々を見て、「どうしたらあんなことができるのだろう。」と考え始め、自分がその場にいなくてよかったと考えます。きっとその場にいたら、変な人だと思われるでしょう。

私と同じような人、他にもいたら、ぜひお話してみたいです。

人々はとにかく有名人を遠慮なく批判する

不思議なことに、有名人は、容赦なしに批判され、プライベートな行動まで観察される。
批判者は、本人がそれをされたら、さぞ怒るだろうなというようなことを平気で有名人に対してやる。


ある、漫画風の動画を手伝おうとした。内容は、倫理的な内容で、健全そうなのだが、一か所、某有名人の批判が入る。それも名指しで。
これが有名人ではなく、友人なら、人間誰にも間違えがあると、大目に見てもらえるのだけれど。平気で個人名をあげられ、プライベートな失態が明るみに出る。

私が動画の矛盾を指摘したら、こんどは音信不通になった。ストーリーは、事実に基づいているとされている。だから、きちんと調べれば、情報が正しいかどうかすぐわかるのだ。やはり、自分がかかわるものは、きちんとしていないといけない。特に、倫理的に人に影響を与えようとするものはそうだ。でも、批判ではなく、良いものを作ることに関わりたかったからなのだけれど、「仕事」としてみてはもらえなかったらしい。

私はこのまま音信不通であればいいとひそかに思っている。もし、きちんと反省、または反論してきたら、尊敬ものだ。良いものを作りたいという熱意は、こういうところに現れる。何も言ってこないのは一番悪い。

批判する人間は、さぞかし批判されても動じないだろうと思われるが、意外と、自分が批判されるのには耐えられない人間が多いようだ。ずけずけとものをいう人間に、ずけずけと物を言うと、驚くほど傷つく。自分のことを棚にでも上げなければ、人のことは批判できないものだ。

Friday 1 November 2019

飛蚊症

長期にわたってPCを見た後に、突然目の中に、真黒なインキを垂らしたような映像が現れた。それが流れて目の中に広がってゆく様子は、恐ろしいものだった。

数日でだいぶ良くなったものの、まだ目の前が、ぐちゃぐちゃしている。

一句書いた。

a drop of ink
in my right eye
blocking my sight

見なくてはいけないのに、見えないものはたくさんある。
人生の目的はその一つだと思う。

私は、証明された神の存在を認めることによってのみ、それらが見えてくるのだと思うけれど、その証明は、客観的で、現実的ないといけない。

でも、世の中は、主観的な証拠に基づいて、神を信じている人が多い。
 それは、科学の世界でもそうだと思う。ただ、宗教と科学の違いは、証拠が主観的なものだということを、宗教者はある程度認めているが、科学者は、それを認めるのが難しい。確かに、表面的には、科学的な説明というのがあって、それは非常に理論的に構成されている。でも、その土台はどうだろうか。
多くの科学は、偉大な科学者の空想に基づいているのではないだろうか。
例えば、進化論を唱えたダーヴィンは、確かに素晴らしい科学者だと思う。しかし、進化論は実証することができない理論だ。
それでも、様々な科学的理論がその上に建てられている。

偉そうなことを言うけれど、これが私の正直な気持ちだ。

もし、人間の存在に目的がないというのが本当ならば、どうしてそんなことを人間は考えるのだろうか。それを必要とするのだろうか。

私たちは、本当に、少しのことしか見ていない。

Monday 21 October 2019

日本って安い

日本は高いと思っていたけれど、最近、そうでもないなと思う。
翻訳の仕事を探すために、いくつかの業者とやり取りをしたけれど、あまりの報酬の安さに、びっくりする。以前は、日本語の文字1つに対し、10円ということもあった。でも、某アウトソーシングの紹介サイトでは、5円でも高すぎる。ネイティブレベルの翻訳書と言われる人たちが、2円、3円で引き受けいている。

これでokを出してしまったら、ワーキングプアーのパターンにはまり込む。

日本で暮らしていれば、ただの貧乏で終わるところが、スペインで自営業者がこれをやると、まさに自殺行為になる。スペインでの自営業者の税金の高さは有名なのだ。
 ヨーロッパ全体をみると、通常の仕事の時給は待遇は、日本よりはるかに良い。日本で働き、海外で暮らすというのが良いと以前は思われていたが、今は全くそうではない。

日本は安い国だ。でも、お金がかかるような人付き合いや、ライフスタイルを強いられる。ただ、勇気と、自尊心があれば拒否することもできる。

正直、最近翻訳の仕事を継続してゆく自信がなくなった。ネイティブレベルを求める仕事でも、日本人のように英文が書けないと理解されない。それに、仕事が本当にできるというよりは、多くの翻訳者は、はったりで生きているように思う。

それよりは、もっと、英語や日本語を直接使用して、何か別の仕事をしたほうが良いように思う。

以前から英語の詩を書いているけれど、そういうものが、仕事になったらいいな。

本を出した。
https://www.amazon.com/dp/1690071567?ref_=pe_3052080_397514860

Sunday 20 October 2019

短い人生

信じてもらえないかもしれないけれど、私には、生まれたばかりのころの記憶がある。
まだ、言葉がわからなかったのが、だんだんわかるようになり、自分でも話せるようになってきたことを覚えている。
小さいころに見た夢、人が言ったこと、何を想像していたか、何を食べてどう感じたかを鮮明に覚えている。

生れたのが、そんなに前のことのように感じていない。

数日前に57になった。10年20年なんてあっというまだ。だんだん、死が近づいてくるのだけれど、つくづく短い人生だなあと思う。

やっと最近、自分のことがうっすらわかってきたというのに。

Saturday 19 October 2019

「都合の悪い現実」よりも実はもっと都合が悪い More inconvenient than "An Inconvenient Truth"

Al Goreのキャンペーン映画、An Inconvenient Truthという2006年年の作品がある。
温暖化というのは、人間の経済活動にとって都合が悪いというわけだ。
 その後、温暖化防止のために、各産業界は具体的な対策を取り始め、温暖化防止のための様々な法律を作っていった、
これが政治のキャンペーンに使用されるというわけだから、人間はこの時点でまだ希望を捨てずにいた。今もそうだ、人々は絶望から、薄紙一枚隔てて、希望に縋り付いている、

希望を持ち続けることは非常に重要なのだけれど、現実が絶望的であるということも見てゆかないといけない。どうやって???

まず、理解しないといけないのは、今、および予想可能な将来における人間の能力を把握しないといけない。それで、今ある問題を解決できるだろうかと問う。

実際、この方法で、現実を見ると、絶望的だということがわかる。環境だけの取り組みでは無理な話だ。問題は急を要するが、解決には、根本的な解決が求められる。根本的な解決というのは、時間がかかるし、常に、何らかの犠牲が求められる。犠牲を払う場合、優先順位の設定が求められる。根本からの解決に万事OKなどはない。

 さらに、絶望したように見られる問題の場合、一から物事を考え直す必要がある。自分の物事のとらえ方だったり、全く異なる分野からのつながりを求めたり。。。

環境問題の解決は、人間の存在意義を問うことにつながってくる。
そもそも、人間だけではなく、動物、植物、地球そのもの、宇宙全体が、なぜこうして存在しているのか、これを考えることが、唯一、希望につながってくるのだとおもう。

時にその答えは、人々がさげすむ、または意にも留めない事柄に隠されていることがある。

そもそも、この素晴らしい自然が、偶然に出来上がったと考えるほど、幻想的なことはない。そこに、創造者の存在を、本当に認めることができるなら、そこに希望を億個tができる。創造者が愛情を込めて作ったものを破壊する状況は、必ず取り除かれると考えることができる。

現実は、時に幻想のように聞こえ、幻想が、現実ととらえられることがある。メディアを介して、これが集団でおこなわれる。様々な言語があるので、これが言語ごとに行われることもある。自分のいる世界は、現実味を帯び、現実を幻想と思うものである。問題があるときは、こうした自分の世界から一歩離れて考える必要がある。

これは私にも当てはまる。

Wednesday 16 October 2019

グレタさんに叱られて

多くの大人たちは、グレタさんの演説からお叱りを受けて、逆切れをしているようだ。彼女の演説の中で、実際、意味のあったデータは、あまり取り上げられていない。
どちらにしても、人間の手には負えない状況なのだけれど、希望がないと生きられない私たちは、希望を作り上げて、何とか生活をしている。その作り上げられた希望実現のための政策も実現できずに、一瞬でも長く生きようともがいている。

ある種の子供たちはというと、大人に、何とかしてくれとデモをしているけれど、実際、彼ら自身は、特に具体的な改善のための行動はとっていない。プラカードを持ってつっ立っている時間があれば、もっと環境について勉強するとか、ごみ拾いをするとか、電気消費量を削減するためにビデオゲームをやめるとかしたほうが、大人にアピールできるのではないだろうか。大人にアピールしても、まず、大人の環境問題の解決能力を期待することはできない。

グレタさんに、現実はもっと複雑なのだよと教えてあげようとする人もいるらしいが、そういうことを言う人物の多くは、悪事を、善行に見せかけるために複雑なことをして、のし上がってきたに違いない。まっとうなことを言っている人間に批判されたときに、言い返す手口として、「世の中そんなに簡単じゃない。」「まだ青い」「年を取ればわかる」というものもあるけれど。

彼女の言っていることは、決して間違えていない。あまりに当たり前のことで誰でも知っていることだろう。

ところである新聞記事に、温暖化よりも、その対策のほうが被害が大きいと書いた変な記事があったが、あまりのすごさに、コメントしようとしたら、コメント欄がない記事だった。世界の気温の上がり方は、たったの1.5℃とか書いていたが、1℃上がるということが、どんなにすごいことか、どうやら知らないらしい。有害な温暖化対策をやめて、今まで通り、がんばって利潤を追求し、貧困を広げないようにしようじゃないか。という話だったように思う。

貧困の原因がどこにあるかもわかっていないのだろうか。

以前、ソビエト連邦が崩壊し、ロシアとなり、ゴルバチョフの下で改革が行われた。今まで、上の命令でだけ動いてきた人々が、突然、命令ではなく自らの意思で労働しなくてはならなくなった。それで、一時的な経済の混乱があった。東ドイツの崩壊でも、そうだった。たとえ良い変化であっても、過渡期の一時的混乱は避けられないものだ。社会の思春期のようなものだ。しかし、やらなければならないことは、やらないといけないのだ。

環境問題を解決するためには、かなりの大きな変化が求められる。多分、人社会の基盤そのものをひっくり返さないと問題は解決されない。今まで、甘い汁を吸ってきた階級だけではない、この変化で一時的に苦しい思いをするのは、労働者階級や、貧困層も含まれるに違いない。かわいそうだけれど、これが現実だ。永遠に続く苦しみをとるか、一時的な苦しみをとるかの選択なのかもしれない。

でも、実は、手遅れなのだ。地球を創造した神以外解決できない。無神論者で、かつ非常に現実的な人間にとっては、とても苦しい時代だろうと思う。

Sunday 6 October 2019

何がネイティブだ!と言いたくなる時

「どうせ誰も読まない」という前提で書いた記事が、読まれていると「しまった!」と思う。誰かの批判を偉そうに書く資格などないと解ってはいても、ついつい書いてしまう。自分が、傲慢になるときがあるのも、よくわかっているのだけれど、正直に表現することで、さらに現状を理解することもできるし、ストレス解消にもなる。

すこし、憐れみをもって読んでいただきたい。

ネイティブにもわかるとか、ネイティブのように英文を書くとか、いろいろ宣伝文句がうたわれているけれど、いったいこのネイティブとはだれのことなのだろう。

英語を母国語とする国は多く、また、公式の言語として使用している国はもっと多い。
米国一つ取ったって、文化もいろいろで、しゃべり方だって違う。比較的面積の小さな英国だって、50以上の方言やアクセントがしゃべられている。

Tを発音しなければ(実はしている)、ネイティブに聞こえるなどと言っている人もいるが、そういう人は、Tをはっきり発音する英国人の英語を、聞いたことがあるのだろうか。英国の一部では、Rをあまり発音しない。

日本人の日本語にもいろいろあるように、ネイティブの英語のレベルもまちまちだ。

ネイティブのように話す必要は、どこにあるのだろうか。人それぞれ、いろいろな考え方があり、いろいろな物事の表現方法がある。日本人が、英語を話すときに、日本的な考えや表現方法を用いて、何が悪いのだろう。自分のことを正直に表現するべきだと思う。
時折、日本人が英語を話していると、やけに芝居がかった印象を受けることがある。私はこういうのに、耐えられないと思うけど、耐える以外に方法がないので、耐えることにしている。

ネイティブとはだれか、なぜネイティブのように話さないといけないのか、何がネイティブだ!

私には、アフリカ人、インド人、フィリピン人たちの話す英語が、とても素敵に聞こえる。


Saturday 5 October 2019

英語の翻訳

チョムスキー(Noam Chomsky)という言語学者がいる。この人は、著書Syntactic Structures
の中で、Colorless green ideas sleep furiously.  という、文法的には正しくても、理解できない文章を紹介している。まあ比喩的な意味を重ねると、まったく意味をなさないわけではないが、人によって理解が変わってくる。
この文章によって彼が説明したかったのは、複雑な文法モデルに関してだった。これに関して私は、あまり興味がないというか、私には理解できない、大げさに言うと言語学、物理学的、社会科学、心理学をまぜこぜにしたような理論になる。
今現在の私の能力では、歯磨き粉と、ウイスキーを混ぜ、それにホイップクリームと、イカ墨のシロップをかけたような理論にしか聞こえない。

とりあえず、日本語でも英語でも、文法的に正しくても、意味がちんぷんかんな文章というものはあるものだ。日本語で考え、日本語で表記する場合、わざとナンセンスな言葉遊びを楽しむ場合は除き、あまりチンプンカンプンな文章は書かないだろうと思う。

しかし、日本語で発想し作成した文章を英語に翻訳するときに、頻繁にこういうことが起きる。複雑な文章の一字一句を、忠実に英訳すると、かなりの確率で、チンプンカンプンになる。

翻訳を始めたばかりのころ、私はこういう失敗をかなりしていたと思う。今だから告白するけれど、意味が解らず、数学の方程式を解くように訳していた。イギリス人の夫のネイティブチェックがなかったら、たちまち仕事がなくなっていただろう。夫に叱られながら、20年近く積み重ねた経験によって、やっと、日本語と英語の発想の違いや、意味を理解して、英文を書くことがなんとかできるようになったところだと思う。

私の場合、はじめから、夫がネイティブチェックをしてくれていたので、いろいろそこから学ぶことができたが、もしこれが、日本人の翻訳家で、納品後、もう修正された翻訳を見ることや、説明を受けることがない場合、どうやって進歩するのだろうと疑問に思う。

TOEIC900点以上という翻訳家の仕事を何度か見たことがある。夫が彼らのネイティブチェックをするときに、どんな素晴らしい翻訳をしているのだろうと、のぞいてみた。ちょっと驚いたのだけれど、英文として意味をなさない、日本語発想の文章が頻繁に見受けられた。


私はTOEICなどの、資格を証明するものは持っていないし、専門は芸術なので、どこかの翻訳事務所に雇ってもらうには、かなり不利だと思う。特に日本では。

最近契約書を翻訳し、クライアントの側の日本人チェッカーによって、添削を受けた。はじめは、謙遜に学ぼう、こんな良い機会はないと思っていたが、ふたを開けてみたら、期待外れだった。たくさん修正箇所があると言われたが、チェッカーの間違えや、語彙の狭さが目についた。また、英文契約書を、あまりたくさん読んでいないようでもあった。日本語原文の理解にも問題があった。
ちなみに、日本語原文には、かなり御堅い文書でも、日本語文法の間違えがたくさんある。それを、そのまま訳すと意味が変わってしまう。ちゃんと、何を言わんとしているのか、文書全体の流れを汲みながら理解しないといけない。
多くの生真面目で、勤勉な人の問題点は、原文の間違えなど、予測できないような事態に柔軟に対応できないところにあるのだろうと思う。日本語原文の間違えは、かなり多い。契約書にもある。文字一語一語にとらわれるので、全体が把握できなくなる。普段から、テキストブックや、翻訳対象の文書ばかり見ていて、英文を楽しんでいないのかもしれない。
ところで、最近、無料のオンライン辞書の情報は、本当に信用できなくなった。わからない単語や熟語は、辞書ではなく、予測をして、英文で通常の検索をする。自分で書いた言い回しも、検索して、それが本当に使用されているかを確認する。さらに、そうした言い回しが含まれている文書が、誰によって作成されているかも確認する。

ところで、正しく、美しい日本語に出会うことはめったにない。そういう意味で、実務翻訳は、実につまらない翻訳だ。感動がない。

翻訳業とは、英語のわからないクライアントのための英語翻訳サービスだけれど、いい仕事をしたと、本当に評価してくれるのはいったい誰なのだろうと、ときどき思う。


Wednesday 28 August 2019

なぜこんな仕事を引き受けたの...

最近、ある米富豪が自殺したのしないのというニュースを読んだ。彼は、若い女性を性的な餌食としていたらしい。それに加え、どこかの王子や、どこかの大統領が彼との交友があったとか。。。それに関わり、そのどこかの王子が、性行為の強要云々という話があるようだ。
何年か前のことだそうだ。

記事によると、自殺したとされている米富豪は、「ロリータ・エクスプレス」とあだ名されたプライベートジェットで、マッサージ師として働いていた女性をレイプしたようだけれど、そもそも、当時14歳だったその女性が、プライベート機で、マッサージ師として働くというのが、胡散臭い話で、違和感を感じる。14歳だとすると、親のOKがないと働けないはずで、仮に彼女自身が14歳にしては、とてもナイーブで、まさか性的なサービスを強要されるとは全く思わなかったとしても、親はさすがに、何が目的か分っていたはず。

ここ数年、有名人にレイプされたという話をよく聞くけど、その半分ぐらいが、本当は同意の下で性関係を持ち、あとで、慰謝料や、注目の的となることを目的として、「実はレイプでした」と言っているような気もする。

世の中嘘つきが多いので、本当に被害にあった人と、そうではない人の区別がなかなかつかなくて困る。


Sunday 16 June 2019

Digital River デジタルリバーの怪

デジタルリバーというのは、世界中にあり、様々な会社と提携している。
ウェブサイトをみると、しっかりしたものを作っているし、代表者の名前も、電話番号も、きちんと表示している。カスタマーサービスもある。

それにもかかわらずなぜ、多くの人が、注文していないのに、お金を引き落とされていたり、更新したにもかかわらず、そのサービスが受けられなかったりしているのか。

デジタルリバーは、アマゾンのようなオンラインショップのようなものでもあるし、他のオンラインサービスを行う会社の代理で顧客に請求を行っていたりする。

突然デジタルリバーという会社が、自分の口座から引き落としたりするとびっくりする。 実は別の会社の代理で、引き落としを行っている。でも、実は、それだけではなかった。

私の場合、そうではなかった。数年前に夫が有料のアンチウィルスをデジタルリバーを介して購入した。しかし、その後、マックに変更してから、それはキャンセルした。ところが先月突然、70ユーロ落とされている。

デジタルリバーのカスタマーサービスに、連絡した。

「客様の注文情報を教えてください。」と来た。注文していないのにそんなものがあるはずがない。
何度も、注文していないと、メールをした。カスタマーサービスは同じことの繰り返しだ。5回6回、やり取りをしたが、全く同じ文面が帰ってくる。

埒が明かない。

類似のケースの検索をした。

https://www.trustpilot.com/review/www.digitalriver.com

https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=14&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwj2hIHw5u3iAhUM6OAKHTyoAlcQFjANegQIBBAB&url=https%3A%2F%2Fwww.sitejabber.com%2Freviews%2Fdigitalriver.com&usg=AOvVaw1We5LgVusKuJP5nxIJGRZH

https://www.complaintsboard.com/complaints/digital-river-c330293.html

https://forums.whirlpool.net.au/archive/1702707

上の英語のリンクには、苦情がたくさん乗せられている。こういうのが、簡単に見つかる。

日本にもデジタルリバーがあるのを知った。日本のサイトでは、こうした苦情を見つけるのが難しい。まだ年数がそんなに立っていないのだろうか。
でも、見つけることができた。

電話番号0353256224の詳細情報「デジタルリバージャパン株式会社」 - 電話番号検索 

これらの苦情を総合すると、はじめて何かを購入する時には、特に問題はないようだけれど、更新の際の2回目の支払いの際に、問題が起きるようだ。

アメリカやヨーロッパでは、か彼らの評判はすこぶる悪い。

日本では、今後、彼らの正体が明らかになってくるのだと思う。

Monday 20 May 2019

脳死に関する懸念

脳死を宣告されたけれど、奇跡的に生き返った(実は死んでいなかった)という話が、いくらかあるようだ。
以前も書いたけれど、「通夜」に死人が生き返ったという話も、世界中にある。

人間の体というのはかなり複雑で、解明できている点というのは、全体の1千万分の1にも満たないのではないだろうか。事実というのは、説明できるかどうかで決まるものではない。説明困難でも、嘘は嘘、真実は真実、ただし、ここの情報を信じるかどうかは、個人個人の論理性と、情報の裏付けが求められる。情報には経験も含まれる。経験で引き出された結論が説明できないこともたくさんある。

通夜という習慣は、死んだと見なされた人々に、本当に死んだのかどうか確認する機会を与えてくれる。人の命は尊いのだ。

脳死した人からの臓器のおかげで命拾いする人もいるだろうけれど、やはり、いくらか可能性があるならば、臓器の元々も持ち主の命を尊重すべきだろうと思う。

実際、人口血液は作ることができる。生理的食塩水でも代用できる。手術後の結果も良く、合併症や、感染などの危険性もない。さらに、体そのものが、血液を作り出す機能を持っている。事故などで大量の血液を失った場合、必要なのは血液ではなく、体内に酸素を運搬するための液体だ。実際、体に入れた血液の殆どは、働かずに体外に排出されてしまうということだ。こうした情報がなかなか広まらないのはなぜか。

こういうことを書くと、世の中を、斜に見ていると言われそうだけれど、臓器というのは、高額なものだ。血液もそうだけれど、ドナーから「もらった」場合でも、どこからか買ってきたものでも、臓器や血液を、高い値段で患者に売ることになる。

医者は、製薬会社からいろいろな恩恵を受けている。そして製薬会社で提供される情報が、しっかりと彼らの頭の中に入っている。彼らが自分たちの信じている情報の根拠を再吟味しない限り、彼らは、製薬会社に利益をもたらすようなことを信じ、実践している。そして、どんな世界、年齢層、血液型、性別、家族背景、居住エリア、役職、文系理系の人間でも、既に信じていることや、周囲で当たり前になっていることを再吟味する人間は、ほんのわずかだと思う。

私は、せめて、自分の家族だけは、脳死後の臓器提供は行わせないようにしようと思っている。本人が望めば仕方がないけれど。




Tuesday 30 April 2019

ロヒンギャに関するドキュメンタリ

アルジャジーラのロヒンギャに関するドキュメンタリを見て、ふと思った。
ミャンマーの人々は、ロヒンギャが、バングラデシュから来た移民だと考えている。
そして国を乗っ取ろうとしていると思っている。

仏教徒として可哀そうだと思っているらしいのだが、国を乗っ取る人々を許してはならないと考えている。市民権を与えてはいけないと考えている。

ロヒンギャたちは、自分たちが昔からミャンマーに住んでいて、バングラディシュ人ではないと言っている。もしかしたら、誰かから洗脳されているのかもしれないと思うほど、多くの人が口をそろえて言っていた。

こんなことは、歴史を見ればわかることだと思う。でも本当に重要な問題は、「国家」とは何かという事だろうと思う。世界共通の定義がない。

例えば、日本は日本人のためにあると考える人も多い。

国家=民族という考えは、戦火を逃れて自国を離れる人々に対し、社会生活を送るために必要な保護や援助を与えることに疑問を投げかける。




Saturday 20 April 2019

人種差別

見慣れないものから離れようとするのは、ごく自然なことかもしれない。
以前、アメリカ人の友人たちが、ドイツの田舎でキャンプをしていたところ、ネオナチに襲われた。幸い、キャンプ場の支配人という女性が、これらネオナチたちに、「お前らはドイツの恥だ」と声をあげ、すぐに警察を呼んでくれたので、大事には至らなかった。立派な女性だ。

20年ぐらい前は、田舎、つまり、今まで黒人を直に見たことのない人が多く住むところにネオナチたちはたくさんいた。勿論都会にもいる。以前住んでいた街は都会だったが、そのすぐ近くで、トルコ人家族が家を燃やされて、子供たちも含め焼死してしまった。

田舎には特に、なじみのない人種に対する違和感、嫌悪感を感じる人々が比較的多くいるようだ。白人の中には、人種差別はいけないと知りつつも、どうしても、アジア人になじめない人々もいる。実際そういう人々に何度も出くわした。ひどいのになると、日本に住んでいながら、そういう白人もいた。
 そういう人々は、特に、社会的な恨みも何もない。でもどうしても異人種になじめないのだ。そういう人種差別者を、田舎者と呼んで差別したくなるが、 それは、彼らと、田舎の人々に対する差別となってよろしくない。

まあ、人間だれしも、 特定の種類の人々に対し、優越感や劣等感を持っている。それがたまたま人種の違いからきていると、人種差別という事になる。

そういうものは、頭で理解して、少なくとも行動や判断に自分の差別的感覚が反映されないように、気を付けなければならない。

または、そういう人々と敢えて接してどういう人々かを観察し、自分を慣れさせるのが、良いのかもしれない。

Friday 19 April 2019

最近のデモンストレーション

環境に関するデモが、ここ最近流行っているようだ。
しかし、集まって、権力筋に訴えても、彼らには解決策がない。

声高々に訴えても、そもそも、当局には能力がないのだ。

デモを行う人々は、きっと良い人たちだろうと思う。でも、彼らの真ん中で、
「ねえねえ、君たち、政府に訴えたって、彼らにだってこの問題は解決できないよ。もしかしたら、もう手遅れかもしれないよ。」と言ったら、袋叩きに合いそうな気がする。

私の頭の中身を、そのままお見せすると、いろいろな団体から袋叩きに合うだろうなと思う。

環境問題というのは、奥が深くて、いろいろな問題とつながっている。人間は、希望を必要としている。本当は絶望状態であっても、何とか希望を見出そうとする。現実を直視することで希望を見出さない限り、その希望は、タダの嘘になってしまう。

環境問題は、長い時間をかけ、深刻化していった。人間社会が、利潤追求を行っている限り、悪化をとめることはできない。

でも、仮に、非常に素晴らしい政府が、人類愛というものをベースに体勢を立て直し、最高の科学者をつかって、環境問題に取り組んでも、すでに手遅れだろうと思う。

人間一人一人の価値観や生活習慣が改善されなくてはならないが、それを行うのはものすごい時間がかかる。環境の劣化のほうが早く進むであろう。正直、このまま行くと、確実に地球は生き物が住めないところになる。そんなことはみな知っていることだろうと思うけど。でも、認識しては暮らしていない。

美しい場所に誰もが住みたいと願う。しかし、その反面、環境を破壊する結果となる生き方を変えたいと思う人は少ない。小さなことでは、喫煙、物欲、名声欲などがある。

人間には、今抱えている多くの諸問題を解決する能力はないのだというと、「なんて希望がない」と思うかもしれない、しかし、これは事実であると思う。

Thursday 18 April 2019

脳死と通夜

 あるニュースが目に留まった。
死後4時間経過した豚の脳機能を回復させることに研究者が成功 -


通夜という習慣は、遺体を一夜ほど寝かす習慣だけれど、数が多くないとしても、「生き返る」ことがあったようだ。本当に死んだものが生き返るわけがないから、正確に言えば、「死んでいなかった」のだろう。

脳死をしていれば 死んだと認定されている。しかし、私の大学の医学の教授は、脳死は死ではないと主張していた。脳死の状態は、失神している状態と似ているらしい。

それが本当だとすると、死体を寝かせて一夜待つという通夜は、良い習慣だったと思う。

教授は、内蔵の提供のために、脳死を死と認定する法律ができることを、大変恐れていた。それはかれこれ、30年以上前の話だ。

今や彼の恐怖が実現した。その教授がまだ生きているかどうか定かではないけれど、最近の脳死に関するニュースを読んで、 背筋が凍るような思いでいるだろうと思う。

死んだとされる豚の脳が生き返ったというニュースから、そのことを思い出した。

死んだ豚ではなく、死んだように見えていても、実は死んでいなかったのだ。死んだら、体の一部も生き返るはずがないから。

Wednesday 17 April 2019

すべてのソーシャルメディアをやめて

先月Twitterをやめた。その数か月前にFacebookのアカウントを削除し、その前にはある英語学習のコミュニティーが終了となった。
Facebookは、友だちなるものが150人ぐらいいて、特に問題はなかった。ただ、Twitterにしても、Facebookにしても、面倒になってしまった。
これで、自分のブログや、詩のサイトを紹介する機会もなくなった。
ほとんど一人で書き綴り、それを読む人もほとんどいない状態だ。
読者を増やすつもりもない。

池を作って放置すると、そこに生物が湧いてくる。
ブログを作って、ただひたすら書き、放置してみようと思う。
何かが湧いてくるかもしれない。

鼻持ちならない権威主義に対抗するために権威主義を利用しないようにするのは大変だ

水戸黄門という番組があったけれど、権威を盾にとって、可哀そうな民衆を苦しめる悪人を、もっと高い権威から成敗するという番組だ。
権威には、権威でしか抵抗できないのだろうか。悲しい。

確かに権威そのものが悪いのではない。権威を世のため人のために使ってもらえるなら、ありがたいことかもしれない。でも、そんなことが上手くできる、心優しい権威者というのは少ないだろうと思う。そもそも、貧乏人の気持ちを金持ちが理解するには、かなりの高いレベルの思考力と想像力、そして、いわゆる「仏様(私は信じてないけど)のような慈悲の心がないと無理だ。

権威者が必ず金持ちだという事ではないけれど、まあ、金力、権力、あとポピュラリティは、世の中を渡ってゆく力だと言える。

でも、芸術の世界に、権威主義はよろしくない。

どこそこの偉い先生の配下にあるというだけで、評価され、威張られても困る。究極的に、芸術は自由で、上下などつけられるものではないと私は考える。競争心丸出し、権威主義的な芸術家など、鼻っから信用できない。作品だけで、勝負しておくれと言いたい。


テネリフェで、いい加減な日本文化を教える人がいるというが、もちろん私のことではない。私は日本文化を教えようなどとは全く思わないし、頼まれても、よっぽどお金をもらわない限り断るつもりだ。でも、いい加減な日本文化だから、楽しく習う人がいるのではないだろうか。そもそも、日本文化にオブラートを書けない限り、西洋人が楽しく学ぶことはできないはずだから。

こんなこと書いても、誰も読まないかもしれないけれど。




日本と日本文化に対する執着心のなさ

海外に住むと、無性に日本食が食べたくなるという時期があるようですが、私の場合、材料が手に入りにくいことや、比較的高価であることだけではなく、特に必要を感じないので、本格的な日本食は食べていません。
また、海外にいると、日本人という事で、日本の伝統文化に絡ませて、自分の作品を紹介する人もいますが、私にはそういう気持ちが全くありません。

私は確かに、日本で生まれ育ち、その文化の影響を受けていますが、日本文化を前面に押し出して、自己表現したいとは全く思わないのです。それをすると、嘘になるからです。

日本文化への理解を 深めたいというのは、自己を模索する理由であって、それを利用したいとは思わないのです。

むしろ、無国籍状態を目指してゆきたいです。

国家主義がもたらしてきた罪悪を日々観察していると、特にそう思います。

勿論、日本文化の良さも認めているつもりですが、日本文化があまり理解されていない海外で、自分の力量のなさを隠すための隠れ蓑として使うのは、好きではありません。

Saturday 13 April 2019

私はなぜコラムが苦手か

自分の書いたものを読み返してつくづく思う。人を引き付けるような文章は、私には無理だと。何がいけないかというと、多くの人との共通点が、少ないのだとおもう。

絵画や音楽は、作者の考えというものがそのまま直接的には表現されない。何らかの形でされたとしても、それ以外の、色や音、形などの美しさで人を引き付けることができる。でも、文章ではそういうわけに行かない。美しい文章というのもあるけれど、やはり、絵画や音楽と比べると、考えがそのままズバリと出る。それでも詩は、間接的な表現ができる。それで、私は詩を書くことは、楽しいと思う。でも、コラムは、うまく書けない。日本語の文法の問題ではなく、表現される考えが、誤解を招くか、多くの人と異なってあまり共感されないという事だろうと思う。

Friday 12 April 2019

大きな隔たり

こんなことを書くと、嫌がられるかもしれないけれど、私には、多くの人々が楽しんでいても、私には退屈で仕方がないものがたくさんある。

ある種の音楽もそれに含まれる。アップビートで、いかにもユーモラスで、普通人が楽しいとか、面白いとかいう音楽が流れてくると、それが終わるまで黙って耐えている。

サーカスの道化も、終わるまで黙って耐える。人々が大笑いしている時に、私は必死に退屈さに我慢している。

映画では、人々が興奮してみる、チャンバラシーンや、カーチェイス、喧嘩の場面、スーパーヒーローの戦いを早く終わらないかと我慢している。

スナップ写真も、我慢している。自分では取らないけれど、好きな人もいるので、拒否はしないけれど。

 スポーツ観戦も苦痛だ。

自分の興味や関心が、あまりに人と違うので、いろいろ遠慮をして、我慢して生活してきたけれど、その我慢を、そう簡単に人に見せるわけにもいかない。そういうことで、自然に付き合いが嫌いになってきた。

周囲にあって手に入りやすいものから 、喜びを得ることができないので、一生懸命良いものを探していた。喜びがなければ、生きている理由がない。でもその喜びというのは、楽しい生活という事ではない。深いものに接した時に味わうことができる感動や、何かを成し遂げたときに味合う達成感なのだろうと思う。

私は、そういう意味で、根っからの堅物なのかもしれない。その割に、決まりを守ることは大の苦手なのである。

いったいどういう人間なのだろう、私は。。。


空白の頭

テネリフェについて記事を書こうとすると、アウトライン以上に突っ込むことができず、何とも言えずつまらない記事になってしまう。それほど、テネリフェの文化に入り込んでいないようだ。人付き合いもあまり得意ではなく、子供のころから一人で、家の中に閉じこもり、本を読んだり、絵を描いたり、歌を歌ったり、一人で遊ぶことが多かった。テネリフェにも、日本人の集まりがあって、いろいろ楽しんでいる人も多いようだけど、どうも、大勢でワイワイするのは、心底苦手。そういうことが好きな人は、周囲からいろいろ学び、その文化を味わう。やはり、テネリフェについて書こうとすると、頭が空白になるのは、私のそうした、孤独好きな性格が原因だろうと思う。


 崖っぷちのアパートの窓から見える風景に、心ときめかせても、これは文化ではない。風景画を描くことはできるけれど、この景色からテネリフェを十分語ることはできない。




Wednesday 3 April 2019

血が語る

私は占いは信じないし、そういうものに操られて人生を送りたくないと思っているけれど、どうしても、血液型については考えてしまうところがあります。
血というものは、あまりにも不思議な液体で、動物や人間の体の中で、いろいろな役割を果たしています。酸素や栄養を体中に運搬したり、体に侵入した悪者をやっつけたり、傷を治したりなどが挙げられますが、多分、血液の働きについて、まだまだ分かっていないことがたくさんあるだろうと思います。生物学的な意味でも意味深いのですが、さらに、心理学的にも、宗教的にも、血液は重要な意味を持っています。

聖書が血に言及しているところを、ざっと見ますと、
創世記9:4、レビ記17:11、14、使徒15:20、コロサイ1:20などが挙げられます。
こうした聖句を総合しますと、
1.血は魂(命)を象徴する、
2.血は神にとって神聖な者、
3、血を食べてはならない、
となります。

単刀直入に言ってしまうと、血は魂、つまり、動物や人間そのものを表します。(ヘブライ語ではネフェシュ[נֶפֶשׁ]、ギリシャ語ではプシュケー[ψυχή] お手数ですが、この意味についてご自分で検索してみてください。)




さらに、血を実際に見たときの、心理的な影響なども、興味深いものがあると思います。
血を連想させる赤、それを見て、人はいろいろなことを感じます。情熱、怒りなどを表現するには、赤は最適な色です。他の人の注意をひく色でもあり、広告業界では、目玉商品やセールの表示に使われています。

こうした赤を、特別な色にしているのは、人間が血に抱く、特別な感情があるからでしょう。

Monday 25 March 2019

正直に言いますと

正直に言いますと、最近、ケーキを作っています。
週に一度、ティラミスのようなものを作り、ここのところ、チョコレートシフォンケーキを焼いています。

実験のようなもので、毎回、作り方を変えています。ティラミスのようなものというのは、実際、マスカルポーネを使わず、一番安いクリームチーズを使っているので、ティラミスとは言えないうえ、そこにさらに、自分のアイデアを加えているからです。私は、レモンを使い、また、黒砂糖と蜂蜜で甘みを出しています。レモンの分量がおいしさの決め手となっています。

チョコレートシフォンは、まだ2回しか焼いていませんが、これは、メレンゲが上手くできるかが決め手となるでしょう。
メレンゲを作るときに、水や油が混ざっていてはいけません。
 やはり、黒砂糖を使っています。

自分で作るほうが、健康的で、家計にも優しく、作る方を覚えてしまえば、それを発展させて、新しい味を発見できるのではないかと思います。

私の場合、一つのレシピだけを見るのではなく、複数のレシピを見て比較しながら作ります。一旦、分量や手順を覚えたら、あとは自由に変化させて楽しみます。

Sunday 24 March 2019

哲学は何かの解決策になるか?

哲学というものは、悩みを解決するものではなく、悩みを認識させるものだと思う。
人生の目的についての答えを探すものではなく、その質問をさらに深めるのが、哲学なのではないかという気がして仕方がない。

数か月前にFacebookのアカウントを削除し、昨日は、Twitterをやめた。
 Twitterは、本当に多くの人たちがいろいろなことを言っているけれど、それがみな頭に残って、いつまでもグルグルまわるので、時々神経を病みそうになる。そんなことを考えること自体、もうやられているのかもしれない。
それでも、何か得られるものがあるかもしれないと思って、美術館や、作家や、音楽家をフォローしてきたけれど、 なんだかつまらなくなってしまった。もしかしたら私は、ただ単に飽きっぽいのかもしれない。

Twitterで書いていたら、詩が書けなくなった。小さなストレスがこまめに発散されるので、詩を書く必要がなくなってしまったのかもしれない。もっと、爆発するぐらい何かを貯め込まないといけない。 でもこれも、言い訳なのかもしれない。


だからこれから、だれが見るとも知れないブログで心の内を綴ろうと思う。

忘れていた

 最近、音楽を聴こうという気分になった。それで、何を聞こうと探していたのだけれど、聞きたいものが特にない。それでも何か聞きたいので、まず マックス・リヒターが、アレンジしているビバルディの春は、気持ちがよかった。 その後、 ブラームス、それで何か、もっと新しくて、感動できるものと...