Wednesday 8 January 2020

平和的多様性コミュニティというファンタジー

人の信条は様々で、同じ信条を持つ人であっても、その信じ方には違いがある。
自分の心情を表現したいという欲求や、それを他の人にも信じてもらいたいという強い欲求は、人間として非常に自然なものだ。それに加えて、周囲とうまく付き合いたいとも考える。
こうした状況下で試行錯誤を繰り返して発展してきた、多様性コミュニティというのは、まあまあ住みやすいだろうと思う。しかし、平和的で完璧な多様性コミュニティは、実現不可能だろうと思う。


どんな社会に住んでいようと、自分と人を同化してしまう傾向のある人は、自分の信じることを他の人も信じないといけないと考える。しかし、学ばない限り、普通は自他の同一視のままで大人になってゆくのだろうと思う。この部分がしっかりできていないと、他の人の信条を尊重し、自分の信条も尊重してもらうなどの関係は絶対にありえない。

加えて、個人の信条を、自由に、平和的に表現することができる社会の実現は不可能であろうと思うのは、人は、神を信じるのではなく、その時その時に現れる、政治的な影響力を持つ野心的な指導者に信仰を持つ。聖書やコーランは、時代と共に都合よく解釈される。競争や野心のある所には、思想の誘導があり、多様性が否定される。

さらに、多様性といっても、平和を実現するには、宗教の教えが平和を尊重していなければならない。宗教は本来気持ちの優しい平和的な人々をも、他の人の生存を脅かすような行動に駆り立てることができる。。

思想、宗教の自由は人間の基本的な権利とはいえ、その権利が完璧に擁護される状況は想像がつかない。それを追求することは、まるで、霧の中の的に矢を射るような感じだろうと思う。






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