Monday, 1 October 2018

FacebookもTwitterもなんだかね。。。

2日前にFacebookを閉じた。友達が150人以上いたのだけれど。あまり利用はしていなかった。先月からTwitterを始めたのだけれど、これはもう飽きてきた。あまりに人の出入りが激しく、まるで、新宿の人込み中を歩いているような気分になった。その上、歩き慣れていないせいか、どうも、うまく歩けないし、80%以上は、時間の無駄になるような投稿ばかりだ。人込みは、私には合わない。
それにしても、多くの人は、上手にソーシャルネットワーク上で、自分のキャラクターを作っている。私にはそういう能力はないらしい。
しばらくこのブログも書いていなかったけれど、そろそろまた書き始めることとしよう。ソーシャルネットワーク上では、昔の友人との再会ができた。これは素晴らしいことでした。

私のブログもそうは見てくれる人はいないと思うけど、なんとなく書き続けていこうかなと思っている。今のところ。

下の絵は私の最新作の一つ。

Saturday, 25 August 2018

絵の話 デッサン

「誰にでもできそうな原始的な料理の中に、料理人の本当の実力が出 てしまう」
鉛筆1本で、繊細な色を表現できるか、質感を表現できるか、物や周囲の温度 、人間の感情とか、複雑に絡み合った光と影など、どれだけ表現できるかとい うことです。白黒写真では、できないことをするには、見えるだけのものを映 すのではなく、そこに、自分が学習した理論を加えないといけないのです。見 える以上のことをしないと、そういうものは、表現できないのです。もっと正 確に言うと。実際に自分たちが見ているのは、見えていると認識できる以上の ことを見ているのだと思います。見えていると思っていること以上のものを、 意識するには、理論が必要なのです。
と、ある人に話しました。

大学に入ったばかりの時、 油絵では、それなりの作品が描けるのに、デッサンがまるでだめな人が多いのに気が付いたことがありました。

抽象画を書くにしても、基本が必要でしょう。スペインに来てそう思います。抽象画から受けるインパクトが、非常に強い作品が多いのです。それは、基本的な物の見方ができているからでしょう。

私たちにインパクトを与えるイメージがどんなものか、解って制作しているのだと思います。写真では出ない、実在感を表現するには、あるものをそのまま映してはダメです。理論と共に、実在感のある具象画を書いているうちに、そこから受けるインパクトを、抽出し、それが、抽象画となる場合、その抽象画から、実在感を感じることができるのだろうと思います。

さらに私は、こういいました。

「見えているものと、見えていると思っているものには、誤差があるのですが、 多分、実際見えているもので、私たちが意識しているものは、氷山の一角のよ うなものなんだろうと思うのです。その、海に隠れているものを見るためには 、「理屈」が必要なんです。光の反射の仕方などは、知識で補ったうえで、見 る訓練をしないと、見えてこないのです。ただ、潜在的にはみな意識していて 、だから、物が3次元で存在しているのがわかるんです。

初めに、このことを知らないと、人に絵を教えることはできません。「なぜ見 えないんだ!」って、中学生の時、先生に怒られたんですが、この先生は、自 分が見えているものはみんな、人にも見えると勘違いしていたんです。自分が 絵を習い始めたときのことを、すっかり忘れて。

高校の美術の先生群は、その点をよく理解していたので、物の見方を順を追っ て教えてくれました。そして、だんだん見えてきました。すると、自分の周囲 の世界が、ガラッと変わったのです。

そのことを、自分の生徒から聞いたときはとてもうれしかったです。おばあさ んなんですが、
「先生のおかげで、世界が変わった」といっていました。それを、私は生徒に 、一番経験してほしいと思っていたのでした。日常生活がどう変わるか、これ こそ、芸術を学ぶ際に、目標とすべき重要なポイントだと思います。」

Wednesday, 22 August 2018

久しぶりの制作

久しぶりの3点、制作しました。


Painted by by Felicia Jarvis

Tuesday, 10 July 2018

しばらくぶり

しばらくぶりで、記事を投稿します。
ここのところ、仕事が立て続けに入っていたので、頭が仕事モードになってしまい、詩や、記事がかけなくなりました。仕事は一段落ついたものの、疲れてしまって、何も書く気がしなくなっていました。
2日前に一つ詩を書いて、今日やっと、このブログに投稿する気になりました。

といっても、特に書くこともなく、ただタイプしているだけです。

私にはいくつかのモードがあります。詩を書くときのモード、絵を描くときのモード、音楽を聞くときのモード、仕事のモード、パズルのモード、全部頭の使い方が違います。音楽を聞くときのモードだけは、他のモードとかち合いません。
音楽にも種類があります。クラッシックの中でも、違いがあります。バッハモード、ドビュッシーモードも違います。現代音楽のモード、軽音楽のモード、それがもっと細かく分かれています。

今、Max Richterに凝っています。彼の音楽は、幅が広くて、私が思うに、この人は、非常に柔軟性のある、視野の広い人なのかもしれないと想像しています。

音楽は、仕事疲れの頭には一番いい薬です。

Saturday, 28 April 2018

La Sabina


La Matanza と、La Victoriaの間の、高速と並行する細い道沿いにある、レストランですが、外から見ると、あまりぱっとしません。開いているのかいないのかもわかりません。
でも敷地に中に入ると、とても心地の良い、小さなパラダイスのようなところでした。

上の写真のお皿に乗っているのは、ツナのフライと、バナナ。バナナは皮ごと、食べました。皮は、しゃきっとしていて、癖がなく、野菜を食べているようでした。

今日は、息子を家においてきて、夫と二人でした。夫も、普段、 あまり外に出られません。だから今日は特別です。

Saturday, 21 April 2018

子供が暗い絵を描く




自宅で子供に絵を教えていたころがある。定期的に作品展を開いていたのだけれど、「絵が暗い」という感想を受け取った。

当時、某県の公立小学校では、ステレオタイプな絵を子供に描かせていた。ドイツから帰国して、この状況を知った時は本当に驚嘆してしまった。年に一度、大きな絵画のコンクールがあり、このコンクールで入選させることに力を入れた授業だった。入賞者は、学校名と共に、地元の新聞で発表される。その作品を見ていると、同じ子供が書いたもののように、見事なステレオタイプなのだ。こんなことが、先進国の一つの県で行われていていいのだろうか。「子供の絵とはこういうものだ、これが健康な、明るい、のびのびした子供の絵なのだ。」押しつけがましいにもほどがある。日本の画壇そのものに、嫌悪感を抱いている私は、さらにこの県の美術教育に、嫌悪感を感じた。この県で一番大きな作品展も、審査員は、自分のクローンのような作品を入選させているようだ。

私は暗い絵がいいと言っているのではなく、絵は、子供たちの心を、素直に反映するものであってほしいと考えている。

親の死や、いじめなど、子供が問題に直面していて、心が痛むとき、それが絵に現れる。その時に、「そんな暗い絵を描くのではありません。子供らしい明るい絵を描きなさい。」などということを要求するのは、残酷ともいえる。子供は、自分がどんなにつらいか訴えているのかもしれない。「よくかけているね。きれいだね。」と受け入れてあげたい。

世の中には、表面だけを見て、表面だけをなおしたがる人が多くて困る。表面に現れてきているのは、内面にあるものの結果なので、時間がかかっても、常に内面を理解するよう努め、できることならば、助けになりたいと思う。

しかし、人が人にしてあげられることは、本当に限界がある。やはり、苦しみを抱える人に代わって、耐えてあげることができない。せめて、苦しいのだということを、理解してあげるしかないのかもしれない。そのための「言葉」が暗い絵なのかもしれない。

Wednesday, 18 April 2018

ネイティブが「間違えではない」という時ー何をネイティブに求めるか

ここでは英語を母国語とする人々を、ネイティブと呼ぶことにします。Native English speakersということだけど、これを、英語を母国語とする人々と書くと、面倒なので、ここでは、ネイティブと省略します。

「私の母の家の窓のガラスのタイプは、防弾ガラスです。」

上の文章の意味は解るでしょう。もし、日本語を知らない人が、上の文章が正しいかどうか聞いてきたらなんて答えるでしょうか。
間違っているとは言わないでしょう。でも、助詞の「の」を3回以上繰り返して使うのは、いい文章ではありませんし、不自然です。

基本的には、何度連続して「の」を使ってもいいのです。しかし実際に使うと、おかしいのです。

英語でも同じです。ネイティブが「間違えではない」といったとしても、不自然な文章にならないという保証はありません。

 「全然大丈夫ですよ。」

全然の後に肯定文が続くのを時々聞きます。これは、文法的には間違いでしょうか。これについて、Wikipediaの説明は、興味深いです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E7%84%B6

ここの、「正しいとされるよう法」では、
「(打消しの言葉や否定的な表現を用いて)まったく。まるで。少しも。まるっきり。
「全然~ない」の形で全否定を表す。」

とあります。
一方同サイトでは、
「主に明治時代の文学作品など明治時代から戦前までの近代語に見られ、否定表現を伴わず「すっかり、ことごとく、完全に、全面的に」。 日本に入ってきた当初の用法はこちらであり、字義的にもこちらが正しい。 国語辞典によってはこの用法を記載しなかったり、記載した上でかつて使われた用法とするものもある。」
ともあります。
面白いと思ったのは、以下の辞書の引用です。
「小学館現代国語例解辞典 (第4版)ぜんぜん【全然】(副)
全く。まるで。「全然知らない」
▽あとに打消や否定表現を伴って用いる語だが、俗に、「非常に」「とても」の意で用いられることがある。」
この説明を読んで、私は、辞書というのは、実際にその言葉がどのように使用されているかということを述べるべきなのだと、改めて思ったわけです。

さらにこういう説明が続きます。

「明治時代には夏目漱石も「全然」を「全面的に」「完全に」の意味で否定を伴わず使っていた[1]。 夏目漱石のほかに石川啄木[2]森鴎外[3]芥川龍之介[4]らも「全然」を否定を伴わず使っている。」


あの、日本の代表的な文学作家たちも、全然に肯定文を繋げているのです。

文法が間違えているかどうか、白黒つけられないような場合があります。 そうなってくると、それが「自然かどうか」ということが問題になってくるでしょう。

 ここから私の考えを述べます。

数人のネイティブに間違えか間違えじゃないかを尋ねるよりも、その文章が、自然かどうかを尋ねることのほうに、意味があるのではないかと思うのです。間違えとか、間違えではないかを判断したいのなら、文法を知っている人に尋ね、さらに彼らの判断に依存せず、適切な資料を教えてもらうことにとどめるべきです。その後、自分で疑問点を信頼できる文献から調べるべきでしょう。ネイティブたちは、辞書や文法書ではありません。むしろ、文法は、ノンネイティブのほうが知っているでしょう。


結論として、文法に関しては、ネイティブも含めた他の人の言っていることをうのみにしてはいけません。人に文法を尋ねた後は、それらの人が提供してくれた情報の出どころを教えてもらい、信頼できる文献で、確認をするべきでしょう。
ネイティブには、文章が自然かどうかを見てもらいましょう。

忘れていた

 最近、音楽を聴こうという気分になった。それで、何を聞こうと探していたのだけれど、聞きたいものが特にない。それでも何か聞きたいので、まず マックス・リヒターが、アレンジしているビバルディの春は、気持ちがよかった。 その後、 ブラームス、それで何か、もっと新しくて、感動できるものと...