Saturday 21 April 2018

子供が暗い絵を描く




自宅で子供に絵を教えていたころがある。定期的に作品展を開いていたのだけれど、「絵が暗い」という感想を受け取った。

当時、某県の公立小学校では、ステレオタイプな絵を子供に描かせていた。ドイツから帰国して、この状況を知った時は本当に驚嘆してしまった。年に一度、大きな絵画のコンクールがあり、このコンクールで入選させることに力を入れた授業だった。入賞者は、学校名と共に、地元の新聞で発表される。その作品を見ていると、同じ子供が書いたもののように、見事なステレオタイプなのだ。こんなことが、先進国の一つの県で行われていていいのだろうか。「子供の絵とはこういうものだ、これが健康な、明るい、のびのびした子供の絵なのだ。」押しつけがましいにもほどがある。日本の画壇そのものに、嫌悪感を抱いている私は、さらにこの県の美術教育に、嫌悪感を感じた。この県で一番大きな作品展も、審査員は、自分のクローンのような作品を入選させているようだ。

私は暗い絵がいいと言っているのではなく、絵は、子供たちの心を、素直に反映するものであってほしいと考えている。

親の死や、いじめなど、子供が問題に直面していて、心が痛むとき、それが絵に現れる。その時に、「そんな暗い絵を描くのではありません。子供らしい明るい絵を描きなさい。」などということを要求するのは、残酷ともいえる。子供は、自分がどんなにつらいか訴えているのかもしれない。「よくかけているね。きれいだね。」と受け入れてあげたい。

世の中には、表面だけを見て、表面だけをなおしたがる人が多くて困る。表面に現れてきているのは、内面にあるものの結果なので、時間がかかっても、常に内面を理解するよう努め、できることならば、助けになりたいと思う。

しかし、人が人にしてあげられることは、本当に限界がある。やはり、苦しみを抱える人に代わって、耐えてあげることができない。せめて、苦しいのだということを、理解してあげるしかないのかもしれない。そのための「言葉」が暗い絵なのかもしれない。

7 comments:

  1. 僕も、20代前半のときに大組織の中の一員として働くことになじめずに、発狂する寸前と言ってもいいくらいの毎日でした。何としてでもこの場を乗り切らないといけないので、暇を見つけて絵を描いたときもあります。そのときに描いた絵が、頭蓋骨でした。これは僕の素直な表現でした。

    父親はそれを見て、「なんちゅう暗い絵を描くんや」と言いました。父親は、誰よりも自分が暗い気分で生きているので、せめて子供には明るく強く生きてほしいと思って、幼いときから僕ら子供をそのように育てようとしましたが、それが無理な方向に向かうことがよくありました。

    このような大人の態度は、世間のごく標準的な態度ですね。僕は、そういう標準的な人間を見るたびに、その人たちに対しては僕自身の素顔は見せないようにしていました。父親に対しても、骸骨の絵を二度と見せませんでした。そして、黙って一人で考え続け、黙って一人で暗い小説を読んだり暗い日記を書いたりし続けました。

    「暗いことを考えるから暗い気分が持続してしまうのだ。暗い気分のときには、動き回ったり、明るい人たちと付き合ったり、明るいことばかりを考えるようにすればいい」という勘違いは、世間の大多数の人たちのあいだに蔓延していて、それは一種のファシズムとして世の中を侵食しています。

    科学技術が発達して暗闇や静寂がなくなっていき、常に電灯がともっていて常に音が聞こえるようになり、さらには人の死体も病人も障碍者も見ることが少なくなっていき、人は(特にテレビに出演する)若くて健康で美しくて明朗な人たちだけに注目し、それ以外の人たちを排除しても生きられるように世の中が変わっていきつつありますね。

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  2. OED Loves Me Notさん、子供のころからいろいろ苦労していらっしゃたのですね。「暗いことを考えるから暗い気分が持続してしまうのだ。」という考え方は、確かに一般に浸透しています。まさに、「それは一種のファシズム」でしょう。

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  3. 僕はほとんど自分からは絵を描いたことはありませんが、学校の授業で絵を描かされたときに、周囲の大人が僕の描いた絵の上から別の絵に変えてしまわれたことがあります。

    小学校のときに宿題のために絵を描いていると、父親がそれを見て「この絵はこういうふうに描くとええんやで」と善意で教えてくれるのはいいのですが、僕が描いた絵の上から色を塗り替えてしまい、輪郭も変えてしまいました。

    中学生のときには、授業の一環として校内写生をしていると、美術教師が僕のチューリップか何かの絵の色が気に食わないらしく、「この花はそういう色やないんや。こういう色なんや」と言いながら、僕の塗った色の上から完全に違う色に僕の花を塗り替えてしまいました。

    教師や大人から変な指導を受けたことは何度もありますが、美術に関してはこの2回の変な指導を思い出します。これもすべて、大人たちは善意のつもりなんですよね。そして知らず知らずのうちに、大人たちは子供の創造性をつぶし、自信を失わせ、自分が感じたり考えたりしていることが根本的に間違っているのだと子供たちに思わせてしまっているんですよね。

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  4. 高校の数学の教師からは、次のような変な指導を受けたことがあります。(この話は、もしかしたら別のところですでに書いたかもしれません。)

    高校3年くらいのとき、ある図形の面積か何かをはじき出すための公式を教えようとしていました。僕は、教科書に載っている公式を見ないで、僕なりに考えてその図形の面積(あるいはまったく別のものだったかもしれません)を独自のやり方で授業中に、教師がしゃべっている間にはじき出しました。

    教師が、「さて、この図形の面積はどんなものになるか想像がつくか?」と言うので、僕は僕のはじき出した方程式を発表しました。黒板に書かれたそれを見て、教師は、「ううん、ややこしいな。正しいかもしれんけど、ようわからんな。いちいち考えるのも面倒やから、ともかくこれは忘れなさい。今から公式を黒板に書くから、それを覚えなさい」と言いました。

    その教師は、ふだんから僕が自分で問題集の中の最難関の問題を自力で解こうとしてもうまくいかなかったときに質問しても、「面倒やから考えてる暇ないから、やめとこ」と言って僕の質問に答えようとしませんでした。

    このような教師には、たくさん出会ったような気がします。もしかしたらほんの数人でしかなかったかもしれませんが、僕はそれだけでも興ざめして、もう教師には何も質問もしないし指導も受けないとますます決意を堅くするばかりでした。「高校であれ大学であれ、教師は馬鹿だから教師になっているのだ。能力のある人が教師になるはずはない」と思いたくなるほどです。

    英語の教師は、2年ほどのあいだに僕が提起した100回ほどの質問に、ついに一度も答えたことがありませんでした。「調べておくよ」と言いながら僕の質問をノートに書きつけるのはいいのですが、ついに答えてくれたことがないのです。

    ただ、僕の場合は、周囲の教師がだらしないからこそ僕自身の主体性が育ち、大人であれ教師であれ、大学の先生であれ世界的な権威者であれ、そもそも他人は当てにならないから、すべては自分で勉強して自分で解決する以外にはないのだ、という信念を堅く持つに至ったので、よかったのかもしれません。周囲の主体性のない人たちを見ると、僕みたいにろくな教師に出会わなかったがゆえに一人で勉強する癖がついてよかったのだという気もします。

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  5. 上に書いた数学の公式に関しては、僕が独自にはじき出した方程式は複雑そうに見えて、実は整理してみたら教科書に載っていた公式とまったく同じものになったのです。

    そういうことに、なぜ数学教師が自分で確かめもしないで「ともかくこれは忘れろ。公式を覚えろ」としか言えないのか?数学こそ暗記よりもはるかに、少ない知識を使って自分で考えるプロセスが大事ではないのか、と訴えたくなるところですが、どうせ馬鹿教師どもには何もわかりません。僕はそういう馬鹿どもが主流を占めるこの世を改革しようなんて、思っていません。

    今では YouTube やブログなどで無料で情報を発信できるので、僕は僕の信じることを発信していきたいと思っています。それを読むか読まないかは、一人一人が決めることですので、こちらも気が楽です。何も考えないで与えられたことを暗記するだけで終わりたい人は、そのように生きればいいのです。

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  6. 生徒を考えさせる指導には、先生の側に、多くの準備が求められますし、網羅できる量も、丸暗記よりも少なくなります。時間がないというのもありますが、多分、いろいろな制約の中で現実的ではないと考えたのかもしれません。そうやって、教えられてきたので、また自分が教える時も、同じように教えるのでしょう。
    でも、勉強の中で何が一番面白いかというと、考えることで、丸暗記は、勉強をつまらなくします。
    今は、いろいろな情報がネットで利用できます。それは、本当に勉強したい人にとって、とても便利なものですね。わたしも、本当に助かっています。
    勿論いろいろ弊害もありますけど。

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  7. ネットの弊害は、答えを安直に探そうとすればすぐに見つかってしまうことですね。なんでもかんでもクリック一つで見つけられる。その情報を読み取る力がないときには、質疑応答のサイトで尋ねれば、あっと言う間に答えてくれるのです。だから、考えたくない人や勉強したくない人は、ネットのせいでますます考えず勉強もしないままに生きることになりますね。

    僕などは、周囲に誰も僕の疑問に答える人がいなかったので、常に頭の中に1万項目くらいの疑問が溜まっていき、それらを一つ一つ解決するためにいろんな本を読み続け、考え続け、何か月、何年、何十年もかけなければなりませんでした。しかしそれが、僕にとってはとても良かったことだと思っています。

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