Wednesday 18 April 2018

ネイティブが「間違えではない」という時ー何をネイティブに求めるか

ここでは英語を母国語とする人々を、ネイティブと呼ぶことにします。Native English speakersということだけど、これを、英語を母国語とする人々と書くと、面倒なので、ここでは、ネイティブと省略します。

「私の母の家の窓のガラスのタイプは、防弾ガラスです。」

上の文章の意味は解るでしょう。もし、日本語を知らない人が、上の文章が正しいかどうか聞いてきたらなんて答えるでしょうか。
間違っているとは言わないでしょう。でも、助詞の「の」を3回以上繰り返して使うのは、いい文章ではありませんし、不自然です。

基本的には、何度連続して「の」を使ってもいいのです。しかし実際に使うと、おかしいのです。

英語でも同じです。ネイティブが「間違えではない」といったとしても、不自然な文章にならないという保証はありません。

 「全然大丈夫ですよ。」

全然の後に肯定文が続くのを時々聞きます。これは、文法的には間違いでしょうか。これについて、Wikipediaの説明は、興味深いです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E7%84%B6

ここの、「正しいとされるよう法」では、
「(打消しの言葉や否定的な表現を用いて)まったく。まるで。少しも。まるっきり。
「全然~ない」の形で全否定を表す。」

とあります。
一方同サイトでは、
「主に明治時代の文学作品など明治時代から戦前までの近代語に見られ、否定表現を伴わず「すっかり、ことごとく、完全に、全面的に」。 日本に入ってきた当初の用法はこちらであり、字義的にもこちらが正しい。 国語辞典によってはこの用法を記載しなかったり、記載した上でかつて使われた用法とするものもある。」
ともあります。
面白いと思ったのは、以下の辞書の引用です。
「小学館現代国語例解辞典 (第4版)ぜんぜん【全然】(副)
全く。まるで。「全然知らない」
▽あとに打消や否定表現を伴って用いる語だが、俗に、「非常に」「とても」の意で用いられることがある。」
この説明を読んで、私は、辞書というのは、実際にその言葉がどのように使用されているかということを述べるべきなのだと、改めて思ったわけです。

さらにこういう説明が続きます。

「明治時代には夏目漱石も「全然」を「全面的に」「完全に」の意味で否定を伴わず使っていた[1]。 夏目漱石のほかに石川啄木[2]森鴎外[3]芥川龍之介[4]らも「全然」を否定を伴わず使っている。」


あの、日本の代表的な文学作家たちも、全然に肯定文を繋げているのです。

文法が間違えているかどうか、白黒つけられないような場合があります。 そうなってくると、それが「自然かどうか」ということが問題になってくるでしょう。

 ここから私の考えを述べます。

数人のネイティブに間違えか間違えじゃないかを尋ねるよりも、その文章が、自然かどうかを尋ねることのほうに、意味があるのではないかと思うのです。間違えとか、間違えではないかを判断したいのなら、文法を知っている人に尋ね、さらに彼らの判断に依存せず、適切な資料を教えてもらうことにとどめるべきです。その後、自分で疑問点を信頼できる文献から調べるべきでしょう。ネイティブたちは、辞書や文法書ではありません。むしろ、文法は、ノンネイティブのほうが知っているでしょう。


結論として、文法に関しては、ネイティブも含めた他の人の言っていることをうのみにしてはいけません。人に文法を尋ねた後は、それらの人が提供してくれた情報の出どころを教えてもらい、信頼できる文献で、確認をするべきでしょう。
ネイティブには、文章が自然かどうかを見てもらいましょう。

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