Sunday, 29 December 2019

防衛とは

何を隠そう、私は小さいころから、徹底した反戦教育を受けてきた。親は、自衛隊すらも「軍」であるので、存在すべきではないと私に語っていた。理屈としては、「自衛隊すらも持たない国を攻撃するような国はない」というものだが、50年以上前は、こういう理屈も「なるほど」と思えたのかもしれない。今は、こんなことは誰も信じないだろうなと思う。

私は今でも、理想的な社会は、軍備が一切ない社会であると信じているのだけれど、現実問題として、今の社会体制に、この理想を掲げるのは無理だろうと思う。 米軍基地の周囲で、平和活動している人々の気持ちはわかるが、あまり現実的だとは思えない。

日本の自衛隊が、中東に派遣されるということで、これは、自衛隊の域を超えた、国際軍への参加なのではという意見もあるようだけれど、実際、日本国を守るためには、日本にとどまり敵の侵入を待つだけという理屈は、現在ではもう通らないのではないだろうかと思う。
国際社会の一員として、日本の責任というのもあるだろうし、そして防衛とは、侵入する敵を待つのではなく、敵に侵入されないよう措置を取ることだとも思う。

私は、地球上のに国境がある限り、本当の平和というのは到来しないと信じている。
平和を求める人々、環境の改善を求める人々が、多大な努力を払って活動しても、それを成し遂げるための土台が今の地球には存在しない。

私の希望は、戦争のない地球なのだけれど、これは、平和運動では成し遂げることはできない。平和運動では、人間の生き方、人生の目的など問題の奥の奥までは追及できない。人類が求めてきた重要な質問の答えが出せない限り、環境の問題も、戦争の問題も続いてゆくだろう。

 以下、イザヤ2章4節
New International Version
He will judge between the nations and will settle disputes for many peoples. They will beat their swords into plowshares and their spears into pruning hooks. Nation will not take up sword against nation, nor will they train for war anymore.







Saturday, 7 December 2019

日本人の読解力の低下

日本人の読解力が低下している。
日本の読解力低下=“考えが違う人”との議論少ない? 若新雄純氏「立体的な思考が必要」

残念なことだけれど、私もそれをひしひしと感じる。
考えが違う人との議論が少ないことが、一つの原因として挙げられているけれど、確かにそれは事実だと思う。
私の考えとしては、まず、考えが似ている人と話す際、話が予測できるので、きちんと話を聞かなくなるし、話し手も、いろいろなものを端折って話せばよい。そうであれば、確かに、表現力も読解力も身につかない。

この記事の中には、紙の本を読むことを進めていたが、紙の本は確かに、しっかりした文体で書かれているものが多い。一理ある。
しかし、オンラインの記事の多くは、校正が入っていないものが多く、日本語の文法の間違えが多くみられる。
翻訳の日本語原稿で、きちんとした日本語で書かれたものは少ない。
日英訳の本当の難しさは、そういう日本語を理解することだと思う。文意を読み取るということ、それを英語で表現すること。

Monday, 25 November 2019

勝手に思い込んで突き進む人々

人生経験が多いといっても、人ひとりが経験できることなど、たかが知れている。
様々な環境といっても、70,80年の人生で、どの程度の経験ができるだろうか。
世界は広い。人間の歴史の何千分の一を経験したからと言って、何がわかるだろうか。

人の話を半分だけ聞いて、すぐに何かを判断する人間の多いこと。

車を売りに出した。ミニクーパー、右ハンドル、スタートしない、部品取り用、2500ユーロ。

たくさん問い合わせがくる。それで、右ハンドルで動かないというと、すぐに、あきらめる。書いておいたのに、半分しか読んでいない。時間の無駄だ。

人の話をきちんと聞いてほしいものだ。

ミニクーパーと、2500ユーロが、トリガーとなって、衝動的に行動する。

それと同様、人の行動を促すキーワードがある。そのキーワードは、文章から独立し、人の行動のトリガーとなる。

時にマスコミは、それを悪用する。

発言全体を紹介せず、都合の良い部分だけ切り取って、報道する。

どこかの会社が、変なメールを送ってきた。
中古車販売の会社なら、その証拠を出せとか、 ここで車は売れるけど、買うことはできないと。人のことを知らず、勝手に、スペインの居住者資格がないと思い込んでいる。それでこういう変なメールを送ってくる。

世の中、思い込まない人のほうが少ないのかもしれないと感じる。

世界は人々の勝手な幻想に支配されているのだ。空恐ろしい。

ご近所さん - 多国籍コミュニティ

私のご近所さんや、時々顔を合わす友人たちの話。

私の隣の部屋のおばさん。彼女は、何人なのか忘れたけれど、スカンジナビアの国の一つ。しょっちゅうバルコニーからうちの窓をたたいて、色々話しかけてくる。

同じ階に何人かドイツ人がいる。以前同じ階に、イタリア人の女性が住んでいたが、彼女はイタリアに引き上げた。その時に、壺やお皿をもらった。

2人の韓国人がいる。一人はすごくおとなしい。もう一人は、しょっちゅう犬と外を散歩していて、良く話しかけてくる。彼女と話すときは、英語とスペイン語とドイツ語をまぜこぜにして話す。

一番上の階には、スロバキア人と、ポーランド人の夫婦とその子供たちが住んでいる。スロバキア人の旦那さんは、自動車修理工で、彼と話すときも、英語とスペイン語とドイツ語をまぜこぜにして話す。奥さんは英語が流ちょうに話せるので、英語で話す。

私の住む階の下に、イギリス人の中年女性がいる。顔を合わせると挨拶する程度。

時々、ドイツ人の年寄夫婦に合う。奥さんと、エレベーターで出会ったときドイツ語で、話をした。話をしたといっても、私は、特にドイツ語を学習したわけではない。でも、ドイツのは5年ほど住んでいいた。なぜかわからないが、一応何となく会話ができている。不思議だ。

イギリス人は、夏場になると、現れる。家からあまり外に出ないので、あまり交流はなく、たまに顔を合わせると、立ち話を2,3分するだけだ。


私の友人だけれど、まず、年寄りのイギリス人。よく気を使ってくれる。でも、スペイン人の友人たちからすると、イギリス人は愛情の表現がうまくないという。日本で育った私は、そんなことはないと感じる。
ドイツ人の友人はイギリス人よりも、人間関係に深く入り込んでくる。冷静で、知性的だが、哲学的でもある。その部分で、深い人間関係を求めるのかもしれない。しかし、我が道をしっかり歩いている。その点イギリス人は、ドイツ人より人の顔色を見る傾向を感じる。イギリス人は親切だけれど、「私は親切なのよ」といった表情は出さない。優しさや愛情は、実際的、効果的な行動で示してくれる。ドイツ人もそういうところがあるかもしれない。
良くドイツ人は日本人と似ていると、日本人の口からきくが、私はそう思わない。
ドイツ人は、日本人と全く逆といっていいほど独立心に富んでいる。そして、論理性を優先する。付き合っていて非常に楽だ。論理が正しい正しくないかに関わりなく、空気をほとんど読まず、単刀直入にものを言ってくれるのは、私にとってとてもありがたい。その点、イギリス人はもう少し「配慮」するので、やや面倒くさい時もある。そういう意味では、イギリス人は日本人と似ている。しかし、日本人よりも、論理性と個人が優先される。
イギリス人、ドイツ人両者は、論議をする。そしてそのことを負担に感じない。これは本当に助かる。

アジア人の友人たちもいる。彼らは実利的だ。しかし、ヨーロッパ生まれのアジア人は欧米化している。ヨーロッパ生まれのインド人の多くは、非常に理知的で、繊細で、アジア人のいいところと、ヨーロッパ人のいいところがうまい具合にミックスされている。イギリスで、多くのインド人が知的職業についているという印象がある。

中国人も多い。友人にはあまりいないが、行きつけのチャイニーズショップの女性は、実利的に賢そうだ。

フィリピーナは、たくましいという印象がある。彼女たちは弱みを見せない。フィリピンに住むインド人の友人が、「フィリピーナは弱音を吐かないので、インド人はその点、きつく感じる」と言っていた。

アフリカ人は、一般的に愛情の表現に富んでいる。時々、非常に個性的な人がいる。

スペイン人は、ストレートな人々だ。声もでかいけれど、頭に浮かんだことがそのまますぐ言葉になるような感じもする。でも、ベネズエラ人は、もう少しおとなしくて、繊細な人が多い。親切で、器用な印象もある。

スペイン人といっても、私の知っているのは、テネリフェのスペイン人で、どうやら本土スペインとは、異なるようだ。


Friday, 22 November 2019

和英辞典、英和辞典に頼ってはいけない

言葉は、人々の生活とともに変化する。新しい言葉が生まれたり、言葉が消え去ったり、意味が変わったり、変化したりする。

英和辞典を引くと、一つの言葉にたくさん意味が載っているけれど、それを読んでも、その言葉の使い方が完璧にわかるようになるわけではない。

だから、英和辞典を丸暗記して安心していてはいけない。

まず英和辞典の情報を、疑ってみよう。 そこにある事例を検索し、実際人々がそういう言葉を使用しているのかを見る。英語のサイトだからといって安心してはいけない。そのサイトの文章を書いたのはどういう人かを見よう。英語圏の人によって書かれたものであれば、ある程度は安心だけれど、できたら複数見て比べてみよう。
 
英語圏のサイトなら何でもいいというわけにはいかない。信頼できるサイトを選ぼう。
良く知られている、ニュースサイトでも、間違えはある。だから、複数見比べないといけない。


Monday, 11 November 2019

人の上に立ってはいけない!

学習塾の宣伝のチラシに、
「人の上に立つ人材を育てる」というのがあった。
リーダーになりたいと、多くの人が考える。
高い地位と、人生の成功を関連付ける人々が大勢いる。愛する子供にも、高い地位について、幸せになってもらいたい。多くの親はそう考える。
でも、この考えは、不健康な社会を反映している。
 人と比較することによってのみ、人生の成功の度合いを計ることができない人は、常に、他人と自分を比較して生活することになる。つまり暗くて苦しい、孤独な人生を送るということだろうと思う。

すべての人がリーダーになることはできない。そして、上には必ず上がいる。これが現実だ。

「人の上に立つ人材を育てる」というのは子供を不幸にする特効薬のようなものだ。

幸福は、外側からの環境によって左右されるというよりも、自分の置かれた現状をどうとらえ、希望を失わずにいられるかにかかっている。親が教えなくてはいけないのは、そういうことだ。

Sunday, 10 November 2019

Art and Craft (2014)から

https://www.imdb.com/title/tt3654964/

実にいいドキュメンタリーだった。

Mark A. Landis  

この人は、絵画の模写をしている。そして出来上がったものを、無料で寄贈している。
直接実物を見ていないが、その模写は、本物のような迫力があり、見る人に迫ってくる。実に見事な模写だ。
実際、原画のサインまで模写している。

多くの人は、これを犯罪と呼ぶかもしれない。しかし彼は、こうした行為から利益を受けていない。彼の動機はもっと深いところにある。イエスキリストが、宣教活動を彼の食物と呼んだように、彼にとって、こうした行為は「食物」のようなものだとドキュメンタリーから判断できる。

彼の模写のすばらしさに魅せられて、多くの人がサポートをしている。ついに彼の個展が実現した。見に来た人々は彼の模写に深い感銘を受けたが、多くの人は、「素晴らしい、でも、あなた自身の作品を見たい。ぜひ、あなたの作品を描いてほしい。」と言っていた。

私は彼らには同調できなかった。

音楽の世界では、演奏家が他の人の作った曲を演奏する。
どうして、絵画の世界では、他の人の描いた絵画を模写できないのか。

演奏家は、模倣芸術家として位置づけられているのに、なぜ、絵画には模倣芸術家がいないのか。

演奏家は、楽譜を読み、曲を解釈し、演奏する。同じ楽譜を演奏しても、演奏家の解釈や力量で、出来上がる作品は異なる。なぜ、絵画の世界にはそれがないのだろうか。

今まで、こういう角度から物事を見たことがなかった。

ただ、最近周囲を見回して思うことだけれど、画家の技術のレベルが、古典画家のレベルとはかけ離れている。大学時代、基礎となるデッサンがまるでダメなのに、作品はそれなりに仕上げる学生が大勢いた。でも、そういう作品は、まるで表面的で、奥行きを感じないものがほとんどだった。まあ、短期間部屋に飾っておくにはいいかもしれない。

マーク・ランディスの技術は、古典的画家のレベルに達しているのだろうと思う。さらに、作品から滲み出している力を感じる。彼は、模写した作品に、自分のサインではなく、きちんと(?)原画の作者のサインをし、彼自身に栄誉を帰していない。

野心や、物欲によって汚されていない、有能な人物に出会うというのは、実に素晴らしいことだ。


忘れていた

 最近、音楽を聴こうという気分になった。それで、何を聞こうと探していたのだけれど、聞きたいものが特にない。それでも何か聞きたいので、まず マックス・リヒターが、アレンジしているビバルディの春は、気持ちがよかった。 その後、 ブラームス、それで何か、もっと新しくて、感動できるものと...