Wednesday, 6 November 2019

素直に書くということ

文章を書くのは苦手だ。日本語の文法とかの問題ではなく、たぶん、自分自身の持つ、他の人との共通点の少なさに問題があるのかもしれない。
どんなことに興味があるかということもあるけれど、物事に対する反応という点で、他の人と違うのかもしれない。読者の気持ちを考えて文章が書かれていると、読みやすいだけではなく、共感を与えることができる。私には、それが欠けているのかもしれない。

ちょっと自分でも驚いたのは、私は現在、英語で詩を書くのが楽しくて、ここの所立て続けに詩を投稿している。昨日、コンテストでGoldをいただいた。

https://allpoetry.com/contest/2736097-Create-a-minimalist-poem--11

日本語では詩がうまく書けないのだけれど、母国語でもない英語では、気兼ねなく、自由に書けるのは、どうしてだろう。

私は、依然、韻を踏んだ詩を、苦労して書いていたのだけれど、今は、英語の俳句を書いている。私の場合、字数は数えないし、季語も無理に入れない。自分で、haikish short poemと呼んでいる。感情を表す言葉を使わず、状況描写だけで、考えや感情を示唆するという、楽しい言葉遊びだ。
 ちなみに、11月5日に書いた俳句を一つ紹介しよう。

a sleeping kitten
hiding claws among soft paws
an innocent beast

特にひねりも技もないし、韻も踏んでいない。通常英語の俳句は大文字は使わないし、theという御堅い冠詞も使わない。さらりと書いて、読むほうが深読みをする。

私はこれが楽しくて仕方がない。



Monday, 4 November 2019

海外の日本人社会

以前読んだ記事で、こういうのがあった。
タイだったと思うけれど、生活費が安いので、そこに引っ越した独身女性がいた。彼女は、美容師で、タイで十分豊かに暮らせるほどの収入があった。
しかし現実はとても苦しい生活をしていた。
たいていの国に、日本人コミュニティがある。交流が盛んで、よく飲み会などがある。彼女は、そういうことで、日本人同士の付き合いに参加していたらしい。
しかし、重なる外食や、ましては飲み会での費用は、彼女にとって大きなものとなり、生活が苦しくなった。それならそういう付き合いはやめればいいじゃないか、というわけにもいかないのだろう。オンラインでの世界もそうだけれど、日本人コミュニティと付き合うのは、ものすごく気力がいるし、飲みにでも行けば、お金がかかる。

私は、ほとんど外食しない。旅行にもゆかない。そういう余裕がない。テキストなどのやり取りでも、こまめに返事ができない。そういうことで、日本人のコミュニティに属するのは、初めから無理だ。

特にさみしいとも感じない。お金のかからない、気を使わなくていい友達もたくさんいるし。ホームシックにもならないし、食べ物にも不満はない。夫は優しいし。息子はいい子だし。

なんて恵まれているのだろう。欲を言えば、もうちょっと収入があるといいなあ。




Sunday, 3 November 2019

訳ありの人々へ

最近は便利なことに、匿名でも、仕事を依頼したり請け負うことができるようになった。ネット環境下で、オンラインの会社が仲介することで比較的安心に仕事ができる。

過去に、誰かから追われている人々に出会ったことが何回かある。借金取りだったり、ヤクザだったり。
追われている人々は、悪い人々ではなく、むしろ、情に流されるタイプの、親切な人たちだった。

ネット難民という人々も、仕事をすることができる。

訳ありの人々も一生懸命働いて、世の中の役に立っている。安いお金で使われて、きついだろうけれど、頑張っておくれ。



Saturday, 2 November 2019

批判の目的

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191102-00205425-hbolz-soci

ある宗教団体との関係を持つ政治家云々の話が出た。
そもそも、宗教の自由は、保証されなければならない。「小さな宗教団体=洗脳=悪い」の方程式は、日本の民衆にしっかり根付いている。これは、人種差別と同格のように感じる。

小さなといっても、それは、神道、カトリック、プロテスタント、イスラム、ヒンドゥー教の有力な団体と比べて小さいということで、本当に小さいわけではない。

私は、宗教が政治に与える影響を、あまり好ましいとは思っていないが、基本的に、それは避けられないものだとも思っている。今の政治体制は、土台からおかしいのだ。

日本人の生活は、神道の教えに深く根ざしたものではあるが、問題は、実質的な神道信者には、信者である自覚がないことだ。要は、盲目的なのである。こんな恐ろしいことはない。この盲目性が、日本の社会の精神的な国際化を阻んでいるのだと私は思う。
さらに、神道の教えは、コメの生産性を目的に形成されている。精神性は、コメの出来高で、その価値が判断される。この点、キリスト教の精神とは全く違う。悪いことに、コメがとれれば、他の宗教の教えや行事も取り入れる。
良く周囲を見渡してほしい。クリスチャンでもないのに、クリスマスを祝い、そういう祝い事が、学校や会社の人間関係の構築に使われていないだろうか。自覚のない神道信者が、他の宗教者を差別するのはよくない。

自分の所属する宗教を、堂々と紹介できる社会出会ったらよいのに。

ところで、

https://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2019110690135430.html

上のニュースには驚いた。政権を批判した内容の芸術に、日本政府がこのように反応するとは。

神道では、上位の権威には黙って従えという教えがある。批判することは悪いことだとは思っていないと、多くの人は言うかもしれないが、心の中のどこかで、批判に対して罪悪感を感じている人も多いと思う。

それと同時に、批判の目的についても考えた。批判される側が、聞く耳を持たないのであれば、批判の意味がないような気がする。
時に、批判の目的は、物事の改善ではなく、もっと別のところにある。
世界中で、今、デモンストレーションが行われているが、彼らは、何を求めているのだろう。きっと、人によって違うのかもしれない。

何を隠そう私は庶民の味方ではありません

私は、正直、庶民的なものは、あまり好きではありません。お茶の間という言葉に、親近感も感じません。下町の人情は、ありがたいとはいえ、私の住む世界でもありません。
ご近所の皆さんは、嫌いではありませんが、何か自分の世界ではないと感じます。音楽も、ポップなものは退屈に感じます。漫画の世界も、どうしても好きになれません。
みんなと気さくに話すのに、神経を使いつかれてしまいます。
日本間に、夕日がさして、畳がオレンジに光る風景を想像すると、本当に、憂鬱になります。
庶民的な男性に、まったく興味がありません。夫はというと、生活感があまりないので、助かります。別に上流階級ではないですが、あまり浮ついたことは言いません。Honeyなどと気色の悪い呼び方もしません。

だから、漫画は嫌いです。どんなに上流階級を描いていても、どこか庶民的で、それがどうも神経に触ります。私は、上流階級でもなんでもなく、ただ、空中を漂いながら、我が道を行く、デイドリーマーのようです。正直、私は貧乏です。

好きなものは、現代音楽、Arvo Pertoが特に好きです。それから、絵画はシュールなのも好きですが、18世紀後半からのヨーロッパのものが好きです。音楽もそうです。深くて重いものが好きです。それ以外は、興味があまり持てません。 正直、軽いものは退屈なのです。本当にすみませんと、あやまりたくなります。

そんなこと言うと、嫌がられるかもしれませんが、そうなんです。

でも、普通のインテリとも気が合いません。普通のインテリさんは、やはり庶民的なものに、安らぎを感じるらしく、勉強は我慢してやっている方も多いからです。私は、一生懸命勉強はしていません。勉強になることはしていますが、勉強しているつもりでしてはいません。いつも、空中を浮遊して、考え事をして楽しんでいます。ただ、自分でやると決めたことは、しぶとく何十年も考え続けます。ゆっくりゆっくり考えます。考えているのですが、人は、私がただボーとしていて、人の話を聞いていないと思うようです。確かに、聞いていないことも多いですが、たまに聞いています。

私は、庶民文化を楽しんでいる人々に時々嫉妬を感じます。それで、真似することがありますが、嘘をついているようで、空しくなります。キャーと、騒ぐ人々を見て、「どうしたらあんなことができるのだろう。」と考え始め、自分がその場にいなくてよかったと考えます。きっとその場にいたら、変な人だと思われるでしょう。

私と同じような人、他にもいたら、ぜひお話してみたいです。

人々はとにかく有名人を遠慮なく批判する

不思議なことに、有名人は、容赦なしに批判され、プライベートな行動まで観察される。
批判者は、本人がそれをされたら、さぞ怒るだろうなというようなことを平気で有名人に対してやる。


ある、漫画風の動画を手伝おうとした。内容は、倫理的な内容で、健全そうなのだが、一か所、某有名人の批判が入る。それも名指しで。
これが有名人ではなく、友人なら、人間誰にも間違えがあると、大目に見てもらえるのだけれど。平気で個人名をあげられ、プライベートな失態が明るみに出る。

私が動画の矛盾を指摘したら、こんどは音信不通になった。ストーリーは、事実に基づいているとされている。だから、きちんと調べれば、情報が正しいかどうかすぐわかるのだ。やはり、自分がかかわるものは、きちんとしていないといけない。特に、倫理的に人に影響を与えようとするものはそうだ。でも、批判ではなく、良いものを作ることに関わりたかったからなのだけれど、「仕事」としてみてはもらえなかったらしい。

私はこのまま音信不通であればいいとひそかに思っている。もし、きちんと反省、または反論してきたら、尊敬ものだ。良いものを作りたいという熱意は、こういうところに現れる。何も言ってこないのは一番悪い。

批判する人間は、さぞかし批判されても動じないだろうと思われるが、意外と、自分が批判されるのには耐えられない人間が多いようだ。ずけずけとものをいう人間に、ずけずけと物を言うと、驚くほど傷つく。自分のことを棚にでも上げなければ、人のことは批判できないものだ。

Friday, 1 November 2019

飛蚊症

長期にわたってPCを見た後に、突然目の中に、真黒なインキを垂らしたような映像が現れた。それが流れて目の中に広がってゆく様子は、恐ろしいものだった。

数日でだいぶ良くなったものの、まだ目の前が、ぐちゃぐちゃしている。

一句書いた。

a drop of ink
in my right eye
blocking my sight

見なくてはいけないのに、見えないものはたくさんある。
人生の目的はその一つだと思う。

私は、証明された神の存在を認めることによってのみ、それらが見えてくるのだと思うけれど、その証明は、客観的で、現実的ないといけない。

でも、世の中は、主観的な証拠に基づいて、神を信じている人が多い。
 それは、科学の世界でもそうだと思う。ただ、宗教と科学の違いは、証拠が主観的なものだということを、宗教者はある程度認めているが、科学者は、それを認めるのが難しい。確かに、表面的には、科学的な説明というのがあって、それは非常に理論的に構成されている。でも、その土台はどうだろうか。
多くの科学は、偉大な科学者の空想に基づいているのではないだろうか。
例えば、進化論を唱えたダーヴィンは、確かに素晴らしい科学者だと思う。しかし、進化論は実証することができない理論だ。
それでも、様々な科学的理論がその上に建てられている。

偉そうなことを言うけれど、これが私の正直な気持ちだ。

もし、人間の存在に目的がないというのが本当ならば、どうしてそんなことを人間は考えるのだろうか。それを必要とするのだろうか。

私たちは、本当に、少しのことしか見ていない。

忘れていた

 最近、音楽を聴こうという気分になった。それで、何を聞こうと探していたのだけれど、聞きたいものが特にない。それでも何か聞きたいので、まず マックス・リヒターが、アレンジしているビバルディの春は、気持ちがよかった。 その後、 ブラームス、それで何か、もっと新しくて、感動できるものと...