Friday 13 April 2018

希望の裏側

Romans 12:12 (KJV)  Rejoicing in hope; patient in tribulation; continuing instant in prayer;

この短い言葉の中に何を読み取るか。

希望という言葉の響きは、明るく、健康的だ。 
しかし、なぜ希望によって喜ぶのだろうか。

1世紀のクリスチャンは、ひどい迫害を受けていた。当時、クリスチャンの会衆が設立されたころ、ユダヤ教の小さな宗派もたくさん現れ、クリスチャンは、そうした小さなユダヤ教の宗派の一つとみられていた。
クリスチャンになるということは、社会的地位を捨てることでもあっただろう。

サウロ時代の栄光をかなぐり捨てて、パウロはクリスチャンになったが、これは、実はすごいことだった。当時一般には、無学な人間が、クリスチャンになると言われていた。漁師や、嫌われ者の税金取り、農民や、女性、また子供たちなど、社会的にあまり尊敬されていない人々から、イエスは愛されていた。パウロはエリートだった。しかし、無学な普通の人々の信じる、小さな「カルト」と思われていたグループに属し、命を懸けて、キリストの教えを広めた。

時には希望以外の喜びが、見つからないこともあり得る。

クリスチャンになると、人格が良くなって、家庭が平和になり、人間関係もうまくゆき、神様が助けてくれるので、生活に困らなくなると思いきや、イエスは、クリスチャンになることは、むしろ、現在の生活に苦しみが生じることを示唆していた。

確かに、正直な人、純真な人は愛される場合もある。しかし、実は、そうではない。本当に正直で純真な人間は、自分のことを宣伝しない。人に良く見せようとはしない。正直な故に、嫌われることのほうが多いのではないだろうか。さらに、本当の愛は、他の人の長期的益を求める。しかし、そういう益は、即効性がなく、むしろ、 人を辛い状態に置くことがある。人をほめて、いい気分にさせ、そこから自分が何か得をしようとすることのほうが、実は多いのかもしれない。下心のある、見返りを期待した親切が、ずいぶんとはびこっていて、人々はもう、何も考えなくても、そういう行動をとるようになってしまっているように感じることがある。
それは、ひねくれた考え方だろうか?そうかもしれない。でも、違うと言い切れるかな。

希望によって喜びなさいという、表面的には、単純で、ただ明るいように響く言葉には、現在の苦しみを耐えるようにという意味合いが含まれている。







2 comments:

  1. 何もかも、ことごとくその通りだと思います。とてもいいブログ記事でした。

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  2. ありがとうございます。

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