Wednesday 11 April 2018

人の弱さは表面上の強さに現れる

人の弱さというのは、表に出てくる強さの中に現れてくることが多いような気がする。人を攻撃する時に、人の弱さは現れる。
臆病な犬がしっぽを後ろ足の間に隠すようにしながら、顔だけは勇ましく、牙をむき吠えまくる。
そういうものを思い出させるのは、口頭による喧嘩ばかりではない。
オンライン上でも、そうした状態を感じることがある。

人間のプライドの高さは、本当に醜い仕方で現れることがある。
とにかく、攻撃という一つの目的に徹した人間は、どんな手を使ってもその目的を果たそうとする。そこに、何かを学ぶなどの、崇高な目的はない。

能力が自分にはあると思っている人間は、確かにある程度の能力を持っているに違いない。しかし、プライドは、能力のある人々を、精神的廃人のようにしてしまう。やがて、能無しになる。成長が止まるのだ。

そういう人間の中にあって、自分が精神的な廃人にならないようにするのは、かなり難しい。論争相手が自分の言ったことを一切理解しないと判断すれば、負けるが勝ちで、逃げ出すのに限る。理解したくない人間は、理解ができないのだ。

その負けるが勝ちがまた難しいのだ。これもプライドが高いとなかなかできない。

しかし、残念だ。人間は、自己を高めようと学ぶが、知識は人を誇り高くすることのほうが多い。知識だけではない、学力、権力、能力、財力と力の付くものすべては、人を腐敗させる。ついてに言えば、外見の良さもそのうちに入る。

そういう力を持つ者は、弱くなり、醜くなってゆく。でももし、本当に、真実を愛する人がいればそういう傾向から守られると思う。

残念なことに、多くの人は真実を求めてはいない。 それはお金を運んできてくれるわけでもないし、人に尊敬されるわけでもない。むしろ、その逆が多いだろう。

人の弱さは、表面上強さとなって現れ、人の強さは、表面上弱さとなって現れる。

なぜこんな仕組みを、神は創造したのだろうか。人間は、やはり物事を考えないといけないようにできている。

本当の学問は、今の社会では、進展しない。 先端の科学を誇りに感じるかもしれないけれど、人間性の貧弱さが土台となっているので、それは人間の幸福に寄与しない。





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